メルマガへの移動のお知らせ

最近、このブログへのアクセスが急に増えているので、書いておきますが、このブログの更新は2018年で止まっており、その後の情報発信は、すべて、メルマガ「週刊 Life is beautiful(月額880円)」で行っているので、新しい情報は、そちらをご覧ください。

毎週火曜日7:10に、米国で暮らすソフトウェア・エンジニアである私の視点から、最新の技術、ITビジネス、ベンチャー、キャリア設計、日米の違い、などについて書いています。

参考までに、最近のトピック(2024年4月2日、9日、16日)を列挙しておきます。

  • 生成系AIのポテンシャル
  • Redditの上場
  • 大谷翔平のスポーツ賭博スキャンダル、DraftKing
  • MicrosoftによるInflection AIのなんちゃって買収
  • MicrosoftのiPhoneモーメント
  • 米国株式最強伝説
  • AIとHBM特需
  • Teslaのイタリア工場
  • 私がサプリメントを拒否する理由
  • Tesla FSD v12体験談
  • Netflix「三体問題」のプロデューサの毒殺事件
  • AI agentic workflowsの利点
  • DellとNvidiaのパートナーシップ
  • Windowsパソコンの次なる進化
  • Tipping pointを超えた電気自動車
  • AIブームはバブルなのか?
  • GoogleによるHubSpotの買収
  • まもなくリリースされる Meta の Llama3
  • Tesla のカルチャー
  • IntelのGaudi3はNvidiaの牙城を崩すか?
  • Steve Jobsが語るクラフトマンシップ

NTTの株価総額が世界一だった時に、Microsoftに転職した理由

6年勤めたNTTを退職しました」という記事が、注目を浴びているようですが、この筆者が NTT を辞めた理由が、私が32年前(1986年)に NTT を辞めた理由とあまり変わらないのに、少々驚きました。

私が NTT を辞めた件に関しては、これまで色々なところで話しては来たのですが、まとまって文章にしたことがなかったので、これを機会に書くことにしました。普段ならメルマガ(週刊 Life is beautiful)の読者限定で書くところですが、今回だけは、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので、ブログ記事として公開します。

当時、NTTは電電公社から民営化したばかりで、1985年に入社した私は、NTTとしては第1期生でした。大学は、早稲田の理工学部電子通信学科で、修士課程まで行きました(当時は、情報学科はまだ独立しておらず、電子通信学科がソフトウェアとハードウェアの両方をカバーしていました)。

大学院は最初から行くことに決めていたので、そのまま修士課程に進みましたが、その時に教授と相談し、NTTから奨学金をもらうことにしました。当時、NTTの研究所は、技術系のエンジニアにとっては、エリート中のエリートだったし、将来は博士号をとって、大学教授になることを目指していた私にとっては、とても良い選択肢に思えたのです。

奨学金は月5万円を2年間、卒業時にNTTに就職すれば返済しなくて良いという条件でした。その当時、私はCANDYというソフト(パソコン用のCADソフト)をアスキーから発売して荒稼ぎしていたので、月5万円などはどうでも良かったのですが、「奨学金を渡した学生を採用しない訳が無い」という計算から、奨学金をもらうことにしたのです。 

CANDYでお世話になっていたアスキー出版の人たちには、「あんな大きな会社に就職しても良いことはない、うちに来れば良いのに」と言われていたのですが、そのころは、プログラミングは趣味にすぎないと考えていたし、「早稲田の大学院からNTTの研究所」というエリートコースに乗ることが、自分に相応しい道だと奢っていた部分が多分にあったと思います。

計画通り NTT から内定をもらい、入社後に配属されたのは、武蔵野通研で交換機向けのOSとCPUを設計する研究室でした。そのころは、今よりもハードウェアよりの人間だったので、CPUの設計は是非ともしてみたいと考えていたのです。

1ヶ月ほどの研修を終えて研究室に配属されたのですが、かなり自由度は高く、好き勝手な研究をして良い雰囲気だったので、まずは CPU の設計に取り掛かりました。

交換機は、大量の小さなトランザクションをリアルタイムで裁く必要があるため、通常のパソコンに使われているCPUを使うと、メモリキャッシュのヒット率が極端に低くなり、そこがボトルネックになってスループットが上げられなくなります。

そこで、今でいうハイパースレッドのような仕組みを作り、メモリー転送が起こっている間はCPUには別のスレッドの計算をさせることにより、スループットを上げるというアイデアをベースに CPU を設計しました。

サクサクと、資料を書き上げ、上司のところに持って行き、「特許を取るべきだし、論文も書きたい」というと、返って来た答えが、「まだ早い」でした。彼によると、特許なんかは新入社員がいきなり申請するものじゃあないし、論文に関しても「順番がある」というのです。

なんだかいきなり出鼻をくじかれた感があったのですが、この上司の「順番がある」という言葉の意味が理解できる事例が、そのすぐ後に起こりました。

同じ研究室の先輩(Aさん、入社4年目)が、素晴らしい研究をし、それをフランスの学会で発表することになったのですが、実際にその発表をするのは、その人の上司(Kさん、入社7年目)ということになったのです。Kさんは、たまたまその先輩の上司になっていましたが、全く分野の違う研究をしており、その先輩の研究内容に関しては、概略しか理解していなかったのです。

私の上司になぜそんなことをするのかを尋ねたところ、「Kさんはまだ海外での研究発表の経験がなく、彼のキャリアを考えるとそろそろしておくべき」だからとのことです。なんだか変な話ですが、それまさにが「順番がある」という話だったのです。

ちなみに、その上司(入社8年目)は、京大で博士号を取ったほどの人でしたが、日中は日経エレクトロニクスなどを読んで情報を集め(英語の論文はあまり読んでいなかったようです)、会社で夕ご飯を食べると、8時まではパソコンでゲームをして遊び(管理職は5時から8時の間は残業手当が出ない仕組みになっていました)、残業手当が出る8時からは彼の上司の資料作りを手伝う、という働き方をしていました。

私の上司の上司(入社18年目)は、とても良く頭の切れる人だったのですが、やっている仕事は、業界の動向を網羅するインダストリーレポートのような論文を書くことでした。後で分かったのですが、彼はすでに出世競争に敗れており、20年勤めた後の天下り先として大学教授のポストを狙っていたため、そんな論文を書くことが重要だったそうです。

別の先輩(入社5年目)は、とあるソフトウェアの開発担当だったのですが、自分自身はコードを書かず、フローチャートも含めた詳細な仕様書を書くのが仕事でした。私から見れば、どう考えてもその仕様書を書く時間でプログラムが書けるにもかかわらず、ソフトウェアの開発は、仕様書を書いて、下請けに発注するのが決まりになっていました。

その辺りから、だんだん「間違ったところに来た」という感覚が芽生えて来たのですが、極め付けは、研究所長が研究室に雑談に来た時でした。私の上司たちと話しているのを何気なく耳に挟んでいたのですが、私がショックを受けたのは、所長の「なぜ君たちの部署から MS-DOS のようなソフトウェアが出てこないのか」というセリフでした。

私は、アスキーがマイクロソフトの代理店をしていたこともあり、MS-DOS向けのデバイスドライバーなどの開発の経験もあり、MS-DOSのことはソースコードレベルで良く知っていました。その頃の MS-DOS は、どうしようもないコードで「私だったらもっと良いものが作れる」と常々感じていたのです。

その時、私の頭の中にあった、価値観がガラガラと崩れていく音が聞こえました。それまで、私は NTT の研究所は、エリート中のエリートが集まる、エンジニア達にとっては孤高の存在で、逆に、アスキーやマイクロソフトは、大学も卒業できない落ちこぼれ連中の吹き溜まりだと感じていたのですが、それが大きな誤りだったことに、所長の一言は気がつかせてくれたのです。

その後しばらくして、上司の上司に「自分は間違ったところに来たのかも知れない」と正直な気持ちを伝えました。すると「一度NTTに入った限り、途中で辞めるのは損だ。僕らが安月給で働いているのは、20年働いた後に一生もらうことの出来る年金のためなんだ。つまり、最初の20年は、毎年、会社に貸しを作っていることになる。途中で辞めるという事は、その貸しを捨ててしまうことに相当するんだ」と言うのです。

勤続18年で、天下り先を探していた彼としては、彼なりの正直な気持ちを話し、私に「ここで20年頑張ろう」という覚悟をさせようとしたのでしょうが、あいにくなことに私の中には「辞めるなら早いほうが良い」という気持ちが生まれてしまいました。

そんな時に、新聞の朝刊で読んだのが、「マイクロソフト、日本法人を設立」というニュースでした。アスキーとの総代理店契約を解消し、アスキーから15人ほどの人を引き抜いて、日本法人を設立することになった、という報道です。

その新聞記事を読み、すぐに(日本法人の社長をすることになった)古川さんに電話をしました。私が「誘ってくれないなんて、水臭いじゃないの」と言うと、「お前は NTT で頑張ると言っていたじゃないか」と言う返事が返って来ます。

古川さんによると、私はなんと生意気にも「もう一度あなたの下で働いてあげても良い」と偉そうなことを言ったそうですが、そんな感じで、マイクロソフトへの転職が決まりました。

すぐに辞表を書いて室長に提出したところ。「親には相談したのか?教授に話をしたのか?」と問い詰められます。「誰にも相談せずに決めました。マイクロソフトの日本法人に行くことにします」と正直に話したところ、それからが大変でした。

大学の教授からは、いきなり「私に推薦状を書いてもらいながら、なんて不義理なことをするんだ!」と怒鳴られるし、隣の研究室の室長、大学の隣の研究室の教授、などが入れ替わり立ち代わり私のところにやって来て、説得工作にかかります。

研究室の室長からは、「こんな事は、会社始まって以来のことだ、最悪の場合、君は解雇される」とまで言われました。「辞表を提出した私を解雇するって何?」と言う感じでしたが、解雇は記録に残るため、私を解雇することにより罰を与えようとと言うアイデアもあったようです。

後から聞いたことによると、NTTを辞める場合には、まずは教授に相談し、「一度学校に戻る」と言う形でNTTの顔を潰さないように辞めるのが筋だったそうです。それを知らずに「いきなり外資系ベンチャーに転職」というのは、あまりにも礼儀知らずだったのです。

結局、1ヶ月ほど待たされて、最終的には研究所長との1対1の面接の後、解雇されずに辞めることが出来ました。所長との会話は覚えていませんが、彼が私との面接に資料として持って来たバインダーの背表紙に「新人類」と書いてあったことだけは、鮮明に覚えています。

彼らの常識から考えて、全く理解できないような行動をする若者を「新人類」と呼び、私は、その最先端にいたのだと思います。

ちなみに、これも後から聞いたのですが、1ヶ月も待たされた理由は、NTTがマイクロソフトに圧力をかける口を探していたからだそうです。NTTぐらいの大きな会社になると、ほとんどの会社が何らかの取引をしているので、そのチャンネルから引き抜きを思いとどまらせよう試みたようですが、当時のマイクロソフトは小さすぎて、それが出来なかったようです。

以上が、私が32年前に NTT からマイクロソフトに転職した経緯です。

ちなみに、その後、日本のマイクロソフトに3年勤めて、シアトル本社に移籍し、2000年の初めまで勤めました。興味がある人もいるだろうから書いておきますが、辞めた時の基本給は14万ドルでした。これにキャッシュのボーナスが10%と、ストックオプションが毎年のようにもらえていました。それも管理職ではなく、バリバリとコードを書く、純粋なソフトウェア・エンジニアとして、です。

ストックオプションによる報酬は、株価によっても大きく左右されるので、なんとも言えませんが、参考までに言うと、私が辞めると宣言した時に、会社が私を引き留めるために提示したストックオプションは $4 million 相当でした。$4 million の現物株ではなく、「$4 million の株を当時の価格で将来買う権利」です。10%値上がりして40万ドル、100%値上がりしたら $4 million のキャピタルゲインが得られる計算になります。

ストックオプションがあるため、会社が上場したり、(当時のマイクロソフトのように)業績が順調に伸び続けると、ストックオプションから得られる報酬の方が、給料よりも多くなるのが普通です。

日本では、ゴーン氏の報酬10億円が多すぎるかどうか、と言う話をしていますが、米国では、会社が上場した結果、働いていたエンジニアが持っていたストックオプションから得られるキャピタルゲインが10億円を超えてしまうことなどが、普通にあるのです。

こんな仕組みを使って、マイクロソフトは数千人のミリオネア(日本語で言うところの億り人)を生み出したのです。それは、Google、Facebook、Apple、Amazon のいずれにも当てはまる話で、業界全体では、少なくとも数万人(ひょっとすると数十万人)のミリオネアを生み出しているのです。サンフランシスコやシアトルの家の価格が高騰するのも当然です。

それぐらいソフトウェア・エンジニアは貴重で、優遇されるべき存在なのです。 それを理解せずに、せっかく採用した理系のエンジニアにコードを書かせず、早々に管理職にしてしまう日本企業が、まっとうな戦いが出来るわけがないのです。

【追記】この記事のおかげで、私のブログに初めて触れる方も多いようで、嬉しい限りです(半日で10万ページビューを超えました)。せっかくなので、ゆっくりしていただくために、関連する記事を下に紹介したので、ぜひとも読んでみてください。どれも、この記事と同じように、時間をかけて丁寧に書いた自信作なので、気に入っていただけると思います。

 


ファンがいれば、炎上なんてこわくない

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉ファンとの交流が継続の最高のモチベーション(285ページ)

インターネットの特徴の一つに双方向性があります。従来のマスメディアのように、一方的に発信するのではなく、受け手側からも発信が可能になりました。読者やユーザーとのコミュニケーションも行いやすくなっています。

アウトプットしている人間にとって、読者からの反応というのは非常に嬉しいものです。ツイッターでもいいね! やリツイートをされたら嬉しいと感じる人が多いでしょうし、リアクションは気になるもの。その証拠に、ツイッターの通知が来たからとワクワクしながら確認してみたら、スパムっぽいアカウントからのリアクションで、ガッカリしてしまうこともあるはずです。

読者やユーザーからのリアクションというものは、モチベーションを上げてくれる最高の方法の一つです。

私の場合、ブログをもともと家族通信として始めたこともあり、その日に食べた料理などを載せていました。始めたばかりの頃に投稿した記事に「男の料理 鳥と野菜のシチュー」があります。これは、私流のシチューの作り方を載せたもので、写真やレシピと一緒に、「上の写真は、たった今、作っているシチュー(というかスープと、どこが違うんだろう? とろみのあるのがシチューかな、それとも具がたくさん入っているのがシチューかな?)である」と、ふとした疑問も書いていました(http://satoshi.blogs.com/life/2004/01/post_5.html)。

すると、ある主婦の方がコメントをくれました。たまたま通りがかった人がコメントを残してくれたわけですが、とても嬉しかったのを覚えています。

ページビューの増加もモチベーションを上げてくれます。私のブログでいえば「日本語とオブジェクト指向」という記事がバズって、爆発的なページビューを獲得しましたが、ブログを続けることへの意欲が一段と高くなったのは、言うまでもありません。

私はブログやメルマガ内で日本企業の問題点について触れることが多くあります。外から見えてきた問題点を鋭く指摘しているのですが、そうやってアウトプットを続けていると、「中島さんのブログを読んで就職先を変えました」とか「この記事の内容を使って上司を説得してみます」といったコメントをよくもらいます。ある意味、人の人生を左右するほどの影響力を持つことができたわけですから、モチベーションが上がらないわけがありません。

この話を「中島さんだからできたんだ」と諦めてしまえば、そこで「試合終了」です。たとえば、テニスについてアウトプットしているなら、あなたがすすめたラケットを読者が買ってくれることはありうるでしょう。あなた流のスマッシュのコツを読者が実際に試してくれるかもしれません。あなたのブログをきっかけにしてテニス好きが集い、リアルで練習や試合をすることだって十分ありえるのです。

 

◉炎上との正しいつき合い方(291ページ)

インターネット上での発言に対し、批判が殺到して収拾がつかなくなる「炎上」。アウトプットは、少なからず炎上のリスクをはらんでいます(よほどその世界であなたの名前が知られていたり、話題性の高いトピックでないかぎり、あまり心配しなくて大丈夫です)。多くの場合、失言や不祥事の発覚によって最初の火種が生まれます。しかし、中には正しいと思って発言したことで、思わぬ炎上の原因になることもあります。

実は私自身、「炎上」を起こした経験は何度もあります。最初に炎上したのは2007年、「鳥取砂丘に名古屋大学の学生がいたずら書きをした」というニュースへのコメントがきっかけでした。

学生たちが、砂丘に、サークル名の一部「HUCK」という文字を書き、問題になっていました。「天然記念物になんてことをするんだ」と批判が殺到していたのですが、私は「この程度のいたずらで騒ぐ方がおかしい」と思ったのです。

この記事を見て、私は小学生時代の出来事を思い出しました。雪が積もった日の朝のこと。住んでいたマンションの向かいにあった学校の校庭に、大きくいたずら書きをしたのです。マンションの住民全員に見えるように、校庭いっぱいにバカボンのパパを描きました。

学生たちが行ったいたずらも、私のいたずらも五十歩百歩。砂丘に致命的なダメージを与えたわけでもなく、風が吹けば消えてしまう話。しかも、まだ若い学生がやってしまったことであり、目くじらをたてずに大目に見るべきレベルです。まあ、仮に何らかの罰を与えるとしても「サークルのメンバー全員で砂丘のゴミ拾い」程度が適切でしょう。少なくとも、大人たちが寄ってたかって批判するほどのことではありません。

と、そんなことを書いたところ、これが大炎上。

世の中にはやってはいけないことがあるのは事実。しかし、このいたずらは小さなもの。以前、朝日新聞のカメラマンが、珊瑚に「K・Y」と落書きしたのとは次元が違います。

いたずらが法律違反かどうかという以前に、この程度のいたずらに対して、もっと世の中が寛容であるべきだと私は思うし、そんな意見を表明した私を攻撃する方がよっぽど住みにくい世の中を作り出していると思ったのです。

コメント欄には、さまざまな意見が飛びかいました。中でも目立ったのが、見慣れないユーザーからの猛烈な批判コメントです。批判されるのは気分の悪いものですが、一方で、こうやって通りすがりで他人のことを批判する人のほとんどは、日常生活のうっぷんを晴らすためにやっているのだ、と確信するに至りました。

つまり、日常生活は不満ばかり。正論や自分なりの正義を振りかざし、他人を批判することによってでしか心のスキマを埋められない、寂しい人たちなのです。

というわけで、批判は殺到しましたが、私は撤回も謝罪もしませんでした。自分が正しいと考えて発言したことには責任を持つべきですが、だからこそ、他人にあれこれ言われたからといって、撤回したり、発言を辞めてしまう必要はまったくないのです。

炎上といえば、東日本大震災の直後、日本の原発政策を猛烈に批判したブログ記事にも批判が殺到しました。私は、原発事故が起こるまでは政府や電力会社のやっていることは合理的に違いないと信じ切っていましたし、原発反対派の人たちの声に耳を傾けていませんでした。原発政策の不合理性にまったく気づいていなかったのです。そんな反省もあり、事故後には猛烈に勉強したうえで、批判する内容をブログに書き綴っていました。当然、実名で責任を持って発言していたのです。

ところが、脱原発の話となると、とたんに「脱原発派には具体的なプランがない」「再生可能エネルギーは高すぎて、補助金なしでは成り立たない」「狭い日本では、再生可能エネルギーは無理」「再生可能エネルギーでやっていけるという詳細な試算があるのか」「CO2が増えてもいいのか」「大停電が起きる」「日本経済が失速する」などのヒステリックな反応ばかり返ってきます。

寄せられたコメントを読んでみると、ネガティブなものに限って論理的ではありませんでした。しかも、私の意見にではなく、私自身を攻撃しに来ているものばかり。批判コメントの中には、読む価値のあるものもありましたが、その割合は1%程度。コメントから何かを得ようとしても、逆に失うものの方が多いありさまでした。


アウトプットにおいて「プロデューサー魂」を持つことの大切さ

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉アウトプットが続く人、続かない人の違い(278ページ)

ここまで読んでみて「実際にアウトプットをしてみたくなった」という人は多いと思います(そう願っています)。しかし、いくら熱い意志を持っていても、時間が経つとアウトプットが続いている人、いつの間にか更新が止まっている人は、はっきり分かれていきます。

アウトプットが続かない理由として、さまざまな理由が考えられます。日々の業務や家の事情に追われ、アウトプットどころではないかもしれません。しかし、アウトプットが続かないのは、実はそもそも「テーマがあなたにとって魅力的ではないから」なのです。

これは、これからプログラミング言語を学ぼうとしている人にとっても同じです。

「最近流行っているし、プログラミング言語を学んでみよう」とか「なんか儲かりそうだし、学んでおくか」という発想では絶対に身につきません。そんな発想では、勉強していても集中力が続かないし、頭に入ってきません。

一方、「こんなアプリが作りたい!」といったはっきりとした目的がある人は飛躍的に成長します。目的に沿ったツールをマスターするために、必要に応じて「(ある意味)仕方なく勉強する」と、結果として効率の良い学習ができる、というのが私の経験則です。

なので、プログラミングを学んでみたいという人に私がすすめているのが、まずは仕事をしながらプログラミングを勉強すること(それも、できるかぎり、自分自身の役に立ちそうなものを作ってみるのがベストです)。その過程で、「プログラミングが楽しいと感じられるか」「自分に向いていると思うか」「夢中になれるか」などが見えてきます。

ですから、新しいサービスを立ち上げるにしても、副業するにしても、このプロセスを経てから決めてもは遅くないと思います。

私はよく転職の相談を受けますが、もしプログラミングがあなたにとっての「天職」であるならば、プログラミングを勉強しているうちに、その事実は自ずと見えてくるはずです。「こんなに楽しいことをして給料をもらえるなら、やるしかない!」という情熱が自然に湧き上がってきて、(私になど相談しなくても)転職すべきだということが明らかになるはずです。

逆に、勉強してもそんな情熱が自然に湧き上がってこないのだとしたら、もう一度考え直した方が良い、ということです。

これは、そっくりそのまま「アウトプット」にもあてはまります。

「なんか、これからのAI時代に役立ちそうだから」「同期のアイツも、ブログをやっているみたいだし……」こんなきっかけのままでは、長続きしないでしょう。また、習慣化したり、毎日同じ時間にアウトプットをしようとするなど、形から入ってみても、残念ながらうまくいかないでしょう。

第1章で、「目的意識があれば、多少の乱文でも読者に伝わる」とお伝えしました。これは、継続においても当てはまります。「なぜ自分がアウトプットをするのか」という部分がはっきりしていなかったり、テーマがつまらなかったり、自分に合っていないと、十中八九続きません。

前置きが長くなりました。アウトプットを少しやってみて、そのテーマがつまらないのであれば、今後続く可能性はきわめて低い。なので、一度決めたテーマでも、途中で変えてしまったほうが自分のためになります。何度も言っているように、好きで好きで仕方ないし、誰に頼まれたわけでもないのに、ついつい書いてしまうようなテーマがベスト。そういったテーマを設定すべきですし、「好きだな」と思えるテーマに出合えるまで、気になったものに片っぱしから首を突っ込んでみるべきなのです。

トップアスリートたちには、コーチという存在がいます。彼らは、選手の技術的なサポートだけをしているわけではありません。選手を鼓舞したり、大会期間中に高いモチベーションがキープできるように指導法を工夫したり、挫けそうになったときには自信を持たせたり……。テクニックやフィジカルのみならず、メンタル面での手厚いサポートも行っているわけです。

当然、各選手によって個性はバラバラですが、各選手の個性をきちんと把握して、「(選手は)どうすれば、モチベーションが上がるのか」「どんなサポートをすれば120%の力を発揮できるのか」といったことを常に考え、指導しています。

当然、これからアウトプットしてみようというあなたにコーチはいません。プレイヤーであると同時に、コーチも務めないといけません。誰もやってくれないので、自分を鼓舞したり、やる気を出させてあげる必要があります。

 

◉自分で自分のプロデューサーになる(282ページ)

ここで、私がブログを通じて「プロデュース能力」を得たという話を思い出してみてください。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のプロデューサーは、コンテンツの作り方が非常に上手だとお伝えしました。それは、異常なほどのこだわりを持つ職人やクリエイター、トップアスリートたちを見つけ出し、そのこだわりのポイントを、映像とナレーションで巧みに視聴者に伝えているからです。

あなたがこれからアウトプットしていく中では、同時に「プロフェッショナル」のプロデューサーのような役割も務めないといけません。主人公はあなた。次に必要なのは、「(自分に)何を語らせたら面白いのか」を見抜くことです。

そして、番組のプロデューサーや現場のディレクターたちは、良い映像を撮ったり、名言を引き出すように日々奮闘しています。「どこをつついたらこの人は熱くなるのか」、そのポイントの見つけ方、そしてつつき方が絶妙なのです。

先述した、妻の父親のイースト菌へのこだわり。あれも同じで、彼との会話中に私は熱くなるポイントを押していたのですが、同じようなことをアウトプットしていく自分自身に対して、やってあげる必要があるでしょう。

続かない人に多く見られる理由として「テーマに魅力がない」とお伝えしました。逆に言えば、「自分が面白いと思うテーマを見つける」「自分にこれを語らせたら熱くなることを引き出す」リサーチャーとしての能力も求められているのです。自分自身のことだから、わかっているつもりでも、これが意外と難しい。それでも、各自で探し続けるしかありません。

アウトプットしてみたものの、3日坊主になってしまったとしましょう。当初のやる気は十分だったのに、次第に続かなくなることはよくあります。しかし、落胆する必要はありません。

それは、プレイヤーとしてのあなたが悪いわけではないからです。書けない、アウトプットが続かない自分が悪いのではなく、テーマ選びが間違っていただけ。つまり、リサーチャーとしての能力が足りなかったのです。好きなものでないと、続きません。さっさとそのテーマに別れを告げ、別のテーマに行きましょう。

私が、このプロデュース能力に気づくまでにはけっこう時間がかかりました。どんな記事なら多くの読者に読まれるのか、「中島聡という人間に何を語らせたら熱くなるのか」ということが、わかり始めたのはブログを始めて3~4年経った頃です。

これは、継続をしていれば自然と鍛えられていくもの。一夜にして得るものではないし、本を読んだからといってすぐにつかめるものではありません。「継続は力なり」とはよく言ったもので、続けてやっていくうちに、なんとなく見えてくるものです。


プレゼンが人間力を高めるのに最適な理由

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉プレゼンの主役はスライドではない。あなた自身だ(239ページ)

さて、ここまでの話を踏まえて、冒頭にお伝えした悪いプレゼン例を思い出してみてください。日本人のほとんどが、スライド上にある文字を順番に読んでいくだけでした。これでは、聞いている人にきちんと伝わっているのかがわかりませんし、そもそも、データや書かれた文字を読み上げるだけでは、聞いている人の記憶にすら残りません。

そして、プレゼンが評価されない多くの人に共通するのが、「プレゼンはスライドは主役」と勘違いしていることです。主役は、あくまでプレゼンをしている本人。社内の企画会議であれ、顧客に対するセールスであれ、一番強く印象づけるべきは、提案する企画や商品ではなく、「プレゼンする自分自身」なのです。

もちろんプレゼンの中身も大切ですが、本当に重要な情報はどのみち文書で別途提出することになるので、プレゼンの段階で重要となるのは、とにかく自分を印象づけ、「彼の提案する企画に社運を賭けてみよう」、「彼女を見込んでこのテクノロジーを導入してみよう」などと思わせることなのです。

やたらと文字ばかり並べたスライドを読み上げるだけの人がいますが、それでは、貴重な時間を使ってプレゼンをしている意味がありません。「大切なことは自分の口でアウトプットする」というのが正しいプレゼン方法なのです。

「プレゼンの主役は自分である」ということに気づかされたのは、アメリカで受けたプレゼンの授業がきっかけでしたが、同じような話を、先日お会いしたチェロ奏者の方からも聞くことができました。たまたま彼のパフォーマンスを耳にしたのですが、とてもすばらしい演奏でした。彼はチェロの演奏がうまいだけでなく、表情を巧みに変えたりして、とても表現力が豊かだったのです。そんなことを彼に伝えていたら、私にこう言ったのです。

「僕はチェロを演奏してるんじゃない。チェロで僕自身を表現しているだけ。チェロは道具にすぎないからね」

素直にかっこいいなと思いました。チェロは道具で、主役は自分。だから彼は、チェロの演奏者でもないと言いますし、お客さんは、自分のチェロの演奏ではなく、僕の表現を聴いてくれている。彼はそう言ったのです。

ですから、プレゼンも同じです。パワーポイントやスライドといった資料は、あくまで道具。主役はプレゼンターなのです。

私はコミュニケーションに強いこだわりを持っていますが、日本人のプレゼンを見ていると残念でなりません。正直、一筋縄ではいかない問題ですので、この章ではしつこく「良いプレゼン(講演)とは何か」ということについて取り上げていこうと思います。

 

◉つまるところ、プレゼンとはジャズである(272ページ)

「講演中はどんなことに気をつけていますか?」とよく聞かれるので、ここで一通りまとめてみたいと思います。

私は早口になりやすいので、話すスピードには気をつけています。マイクがあるので声の大きさに気をつけることはありませんが、ふだんの生活では、声が小さいと「声が小さいのは自信がないのかな」と、聞いている側の印象も悪くなってしまいます。

私の話にうなずいてくれる人を見つけたらしめたもの。その人を見ながら話すようにしています。その人自身も喜んでくれるし、わかりやすくリアクションしてくれるようになるので、こちらの気分も乗ってくるのです。会社内のプレゼンだと、キーパーソンがいるでしょう。彼らに積極的に伝えることも重要ですが、自分の気分を乗せていくためにも、リアクションの良い人を見たほうがいいでしょう。自分の気分が乗れば、結果として良いプレゼンになるからです。

とはいえ、ここまで言ってきたことは、いわば枝葉の部分。自信を持って話したり、相手を見て話したりするのも大切ですが、正しいプレゼンとはすでにお伝えしたとおり。聞いている人に自分のメッセージをきちんと伝えることなのです。ですから、講演中に意識することがあるとすれば、相手が理解しているかどうかの部分。そして、状況に応じて臨機応変にアドリブを入れたりしてあげることが重要。これを意識していれば、良いプレゼンに近づいていくのです。

私は、時間配分をきっちり決めることはしません。何度も言っているように、伝えたいことがきちんと決まっていさえすれば、時間配分は楽にできるからです。観客が理解しているならば、思い切って話題を飛ばしてもいい。知っていることを何度も言われるのはストレスですし、テキストと違って読み飛ばすこともできません。だからこそ、せっかくスライドを用意していても、理解してもらえたとわかれば堂々と飛ばせばいいのです。

アドリブが思いのほか盛り上がり、気づいたらあと5分だったというときも珍しくありません。しかし、そんなときでも、慌てる必要は一切ありません。伝えたいメッセージははっきりしているのですから、スライドを飛ばすなり、メッセージを繰り返すなりすればいいのです。まじめな人ほど、事前に決めたものをきっちりかっちり伝えようとしますが、私がやっている方法のほうが、よほど観客のためになるのです。

私の即興性を大事にするプレゼンスタイルは、音楽でたとえるとジャズと言えます。反対にかっちり内容を決めて挑むのは、クラシック。ジョブズのようなプレゼンならまだしも、プレゼン初心者がやるべきはジャズ的なプレゼン。もはや「プレゼンとはジャズである」と言い切ってもいいくらいです。

プレゼンや講演のあとには、質疑応答の時間が設けられることが多いですが、私はこの時間を大切にしています。先に、青山学院大学で講演した際の質疑応答で、アマゾンダッシュボタンという最適解を得たお話をしたように、私にとって貴重なインプットになるからです。また、質問が来るということは、聞いている人がどんなことに興味を持っているのかということや、私の話の中でわかりづらかった部分を教えてくれるわけですから、自らの後学のためにも役立ちます。

こんな感じで、観客の質問は講演している側にもメリットが多いので、遠慮することなく積極的に質問をしてください。「こんな初歩的なことを聞いて、登壇者が気分を悪くしないだろうか」と不安になるかもしれませんが、そんなことはありません。また、何度も言うように、講演の内容を理解できなかったのはあなたではなく、登壇者の責任。堂々と聞けばいいのです。

私も取材などを通して、思い出したり、気づいたりすることが多くあります。質疑応答も似たようなもので、質問されることで思いがけず開く「中身の詰まった引き出し」だってあるのです。そうやってふだん使っているのとは違ったトークの引き出しが開けば、質問者にとっても講演している側にとっても、良いことずくめなのです。

講演とはジャズであり、観客であるあなたも、バンドの一員。観客としてのアドリブを積極的に入れていきましょう。


一流のプレゼンターが必ずやっていること

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉世界的企業のCEOはアウトプットも超一流(214ページ)

私は現在、シアトルに住んでいます。シアトルという街には世界的な大企業の本社が多数ありますが、その代表的な企業にアマゾンがあります。以前、とあるパーティでアマゾンCEOのジェフ・ベゾスと偶然会ったことがありました。

彼の第一印象は、「思ったより小柄だな」というものでした。PCやスマホの画面越しに何度も見ているベゾスですが、生身で話してみるとやはり圧倒されました。独特のギョロッとした目は眼光鋭く、いかにも変わり者というオーラを放っていたからです。

雑談のテーマでもお話ししたように、ベゾスとの共通の話題を探ってみました。すると、どうやら彼もテニスを趣味にしているとのこと。どのコートでテニスをしているのかという話になり、私が「○○というテニスクラブに入っていて、そこでよくやっている」と言ったところ、ベゾスはこう答えました。「僕は家でするよ」。さすが世界屈指のエグゼクティブだと唸らされたことを覚えています。

同じくシアトルに本社を置く、スターバックス。同社を世界的なコーヒーショップチェーンに育て上げた元会長のハワード・シュルツとも話したことがあります。

彼と私の息子が同じ学校に通っていたので、何度か話す機会がありました。彼の印象は、「人を納得させるのがうまいな」ということ。人あたりが柔らかく、押しつける感じが一切ない。本当に真摯な態度でアプローチしてきます。

彼が話している姿から察するに、スターバックス社内でも「なぜ我々はスターバックスを運営しているのか」という、〝なぜ〟の部分の説明をものすごく丁寧に行っているのだろうと思いました。

飲食を始めとするサービス業においては、店舗運営をどうするとか、新メニュー開発がどうのといった各論に気を取られがちです。しかし、彼がこだわっているのは、「スターバックスがなぜ存在しているのか」という、同社の存在意義の部分でした。スターバックスのコンセプトが「サード・プレイス」であることは有名な話です。要は、会社とも自宅とも違う第三の居場所を作りたいということですが、彼はその概念をものすごくわかりやすく従業員たちに説明していくわけです。単なる説得口調ではなく、本当にそこを目指しているんだという、本物の熱意を持って。そんなことを、彼との会話から感じました。

コストコ(アメリカでは「コスコ」と発音します)のCEO、クレイグ・ジェリネックの発言も印象的でした。会話ではありませんが、彼が登壇していたイベントを訪れた際、質疑応答で質問する機会がありました。

コストコは会員制の倉庫型店舗で、日本の場合、個人は年間5000円弱の会費を支払うことで利用できます。コストコは、会費を支払うメンバーに対し、安く仕入れて安く売ることを行っています。「物を、安く仕入れて、安く売る」、この部分だけを切り取れば、他の小売業のビジネスモデルとあまり変わりません。しかし、コストコが他の小売業と大きく違うのは、そのカルチャーです。それを端的に表しているのが、〝規則〟の存在。小売業の原則は、仕入れた物に利益を乗せて売ることですが、コストコでは15%を超える利幅のある商品の取り扱いは禁止しています。

現在も語り継がれている、象徴的なエピソードがあります。

コストコで人気ブランドのジーンズを25ドルで仕入れ、29ドルで販売したところ、あっという間に売り切れたそうです。

これを受けてコストコは、「今後も売れる可能性はかなり高い」と考え、大量仕入れを行いました。すると、仕入れ値が25ドルから19ドルに下がりました。

さて、29ドルで販売して飛ぶように売れたジーンズ。同じ29ドルで販売すれば、同じように売れるはずです。しかも、仕入れ値が下がっている分、前回よりも利益は増えます。通常の小売業であれば、間違いなく29ドルで販売するでしょう。

しかし、コストコは違いました。社内の規定によって、29ドルでも飛ぶように売れたジーンズを、翌週には24ドルで販売したのです。この話に代表されるように、コストコでは、「仕入れ値に対する小売り価格のマージン上限が15%」というルールが決まっているのです。

これは、MBAのケーススタディやアメリカのビジネス書にもよく取り上げられるエピソードです。成功事例があれば、多くの企業が導入してみるビジネスの世界。コストコは世界的な企業になるほど成功しているわけですが、他の小売り業者はコストコと同じことを実践していません。前置きが長くなりましたが、私はクレイグに「なぜ、他社はそれを真似できないんですか?」と聞いてみたのです。

すると、彼は喜んで答えてくれました。彼の回答をまとめると、こうなります。

「小売業の生命線は『いかに安く仕入れて高く売るか』、この部分にかかっている。他社も小売業という商売は〝そういうもの〟だと考えていて、企業の文化になっているんだ。だから、安く仕入れたものを安く売ることは、彼らには絶対にできない。なぜなら、彼らの本能に反してしまうからさ」

話の内容もさることながら、私が興味深かったのは、「なぜ」という問いに対して、彼がシンプルにわかりやすく答えてくれたことです。

スターバックス元会長のシュルツも先述のとおり、真摯で丁寧なイメージでした。ベゾスもまた、言葉を大切にしています。「競争相手のことばかり見ずに、顧客を見ろ」とは、ベゾスがしばしば繰り返す言葉です。よほど成熟した市場でもないかぎり、競争相手の後を追いかけてもイノベーションは起こりません。顧客が何を必要としているか、それをとことん追求してこそ、価値のあるビジネスが作れるわけですが、そんなメッセージをベゾス自ら従業員たちに伝えているのです。

また、ベゾスは毎年株主向けに送っている年次書簡を効果的に使っています。たとえば、2015年8月に「ニューヨーク・タイムズ」がアマゾンの批判記事を掲載しました。この記事へのアンサーなのでしょう、翌年の書簡の中でベゾスはアマゾンの企業文化に対する自身の考えを訴えていました。株主向けではありますが、従業員たちも読んでいますし、それを狙っていることは言うまでもありません。

このように、一企業を巨大なグローバルカンパニーへと成長させるほどの経営者たちは、自分の理念や思いを伝える能力もまた、突出しているのです。

他方、多くのベンチャー企業が失敗してしまう理由の一つに、コミュニケーション不足が挙げられます。要は、経営者のビジョンや理念が正確かつ長期的に共有されないのです。また、短期的な利益を求めるあまり、信念なき製品づくりやサービスづくりになってしまうことも「あるある」です。

本来、企業は、経営者のビジョンに共感するスタッフが集まり、創意工夫してビジネスを形作っていくもの。そんな意味では、企業経営にもコミュニケーションはきわめて重要ですし、自身のビジョンをわかりやすく伝えること、つまり、思想のアウトプットはリーダーに欠かせないのです。そんなことを、世界的なCEOたちから感じました。

 

◉プレゼンと講演の良し悪しは「おみやげ」の質で決まる(235ページ)

アウトプットの手段の一つに、プレゼンテーションがあります。職種や職場によっては、プレゼンを避けては通れない人は多いと思います。そんなプレゼンですが、日米で比べてみたときに、いかんともしがたい「悲しい事実」が存在します。

マイクロソフト時代、プレゼンの場によく出席していたのですが、アメリカ人のほとんどが、聞いている私たちの目を見ながら堂々とプレゼンする一方、日本人はというと……。ほとんどがスライド上にある文字を順番に読んでいくだけ。こんな姿を見るたび、悔しい思いをしていました。

これはプレゼンをする人が優秀かどうか、という話ではないようです。私の感覚では、全体のトップ20%に入るような優秀なビジネスパーソンやプログラマーを日米で比べたとき、アメリカ人のほぼ全員がプレゼンに長けています。しかし、日本人だとプレゼン下手な人の割合がぐんと高くなってしまいます。

だからといって、日本人の能力が劣っているという話ではありません。「そもそもプレゼンとは何なのか」ということを知っているか、知らないかの差というのが私の考えです。そう考えると、ほとんどの日本人が「スクリーンに映し出されたパワーポイントの資料を真面目に伝えること」がプレゼンだと勘違いしているのでしょう。

では、私が言う〝良いプレゼン〟とはいったい何か。

それは、「もっとも伝えたいメッセージをシンプルに、わかりやすく、情熱的に伝えること」にほかなりません。

私はこれまでに数多くのプレゼンを行ってきました。32歳のときにはビル・ゲイツの前で一世一代と言えるプレゼンを行い、自分の主張が認められたこともあります。それが「ウィンドウズ95」に大きな影響を与えたことは、前著でもお話ししました。

最近では講演に呼ばれたり、大勢の前で話す機会も格段に増えました。いついかなるときも心掛けているのは、「何を伝えたいのか」をはっきり決め、それを伝えるように最大限努力することです。

私はこれを、よく「おみやげ」と呼んでいます。せっかくプレゼンや講演を聞いてくれた人に、私が伝えたかったメッセージをおみやげとして持って帰ってもらうのです。

私は、書く場合には、できるだけ簡潔に、要点だけを伝えることに力を入れます。一方で、話す時には、相手の顔色を見ながら、「いかに私の話に集中してもらえるか」に気をつけながら、「少なくとも要点だけは理解して帰ってもらう」ことに全力を傾けます。

プレゼンや講演を聞いていても、多くのことは心に残りません。これは観客としてプレゼンや講演に参加したことがあるなら、誰もが経験しているはず。ほとんど忘れられてしまう中で、最低一つだけでもメッセージを家に持って帰ってもらえれば「御の字」なのです。逆に、「いや~、今日はいい話が聞けました」という抽象的な感想では、何も得られていないのと同じです。

ここで、これまでに参加したプレゼンや講演を思い出してみてください。その大半が「おみやげ自体がない」または「立派な箱だけ」だったのではないでしょうか。もちろん、登壇者は一生懸命話す内容を考え、一生懸命練習し、話したことでしょう。しかし、残念ながら聞いたあとに「何か」が残るプレゼンや講演は、最近あまり見かけません。

プレゼンや講演で使うスライドの枚数や言葉の数、練習量では、私より労力をかけている人はたくさんいると思いますが、まったく気にしていません。なぜなら、絶対におみやげを持って帰ってもらっているという自負があるからです。

「この章を読んだらプレゼンのテクニックが学べる」と思っていた方には申し訳ないのですが、テクニックうんぬんは二の次です。いくらイケているスライドや流暢なトークを駆使しても、伝えたいメッセージを用意し、おみやげとして持って帰ってもらえないのであれば、そのプレゼンや講演は「時間とお金と労力のムダ」なのです。

まずは、どういうプレゼンが正しいのかを知ること。そして、プレゼンの本質にしたがって、良いプレゼンをすべきだという認識を持ってください。それが良いプレゼンのためのスタート地点。練習やスライドの準備はその後に行うものです。

見方を変えれば、多くの人ができていないのだから、これを読んでプレゼンの本質をつかんだあなたは、今日からすぐに差別化が図れるというわけです。

とても重要なことなので、もう一度言います。

聞いている人に一番伝えたいメッセージは何なのか。まずは、それを定めましょう。


極上のインプットはアウトプットの化学反応から生まれる

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉人に話すことが最高のインプットになる(198ページ)

一般的に、「話すこと=アウトプット」というイメージがあります。私はこれまで何度も講演で話してきましたが、多くの観客に私の話を聞いてもらうわけですから、この行為はアウトプットの最たるものと言えると思います。反対に、講演に参加している側からすれば、「一流と呼ばれる人たちの話を聞くこと=最上のインプット」となるでしょう。

しかし、先日、この逆転現象が起きたのです。

2018年の5月、青山学院大学で、「シンギュラリティと自動運転車」というテーマで講演を行いました。以下、講演の要点を列挙します。

飛躍的な進歩を遂げている、AI(人工知能)技術。この進歩は、世の中にさまざまな変化をもたらします。

その中でも、自動運転車は人々のライフスタイルや街の姿を大きく変えるという意味でとても重要な役割を果たします。それは、90年代の中頃に普及し始めたインターネットによる世の中の変化が、2007年の iPhoneの登場によって大きく加速したのと似ています。

自動運転技術は、もっとも進化しているテスラがようやく現在レベル3と言われる「条件つき自動運転」に達したところです。技術的には2020年ごろにレベル4「高度自動運転」、レベル5「完全自動運転」が実現されると予想されています。しかし、実際にそれが、インターネットにとっての iPhoneのように一般に普及し始めるのは、さらに先でしょう。

自動運転が一番難しいのは、一般道での中速運転(時速25キロから60キロ)で、歩行者や自転車による飛び出しなどに対処するのはまだまだ簡単ではありません。

さらに、Uberやテスラが起こした事故に対するメディアの否定的な反応は凄まじいものでした。こういった半ばヒステリックな反応を見てわかる通り、自動運転車は単に「人が運転するよりも安全」なレベルでは不十分。「人が運転するよりもはるかに安全」なレベルを実現しないかぎり、社会に受け入れられないでしょう。

その意味で、当面は街の一部に自動運転車用の専用車道や特区を設け、そこでは自動運転車のみ、つまり人、自転車、人間が運転する自動車とは交わらない形で導入していくのが理にかなっているし、現実的だと言えます。

ちなみに、「自動運転社会」とは、単に自動運転機能を持つ個々の車がバラバラに走っている社会ではなく、無数の自動運転車をインターネット上のAIが「群れ」として認識し、最適な配車サービスを行う社会です。その意味では、統制のとられた集団生活を行う「アリ」や「ハチ」の行動に似ています。

そんな自動運転サービスの普及により、事故は減り、渋滞がなくなり、街から駐車場スペースが消え、人々は移動中の時間に「運転」以外のより有意義なことを行うことができるようになります。

そういった時代の自動車は、当然ですが、「所有するもの」から「必要に応じて呼び出して、目的地へ届けてもらい、乗り捨てるもの」に変わります。ロボットタクシーや、自動運転 Uberがそれにあたるでしょう。

ちなみに、人々が持つさまざまな移動手段のうち、タクシーが占めているのは(距離で換算して)わずか0・8%しかありません。市場規模にすると、約2兆円です。それに対して、自家用車による移動は60%。

自動運転サービスが置き換えるのは、0・8%のタクシー市場だけではなく、60%の自家用車市場なのです。そこを意識しないと、自動運転車が社会に与える実質的なインパクトの大きさは理解できません。

そんな時代になると、「自動車」というハードウェアはコモディティ化し、利益を上げることができるのは、顧客との直接のつながりを持つ「自動運転サービス」を提供する会社だけということになります。

つまり、既存の自動車メーカーにとっての最大のライバルはUberであり、グーグルから分社化した自動車メーカーのWaymoなのです。

このとてつもない変化は、これから20年くらいかけて着実に起こっていきますが、既存の自動車メーカーの経営陣は、「既存のビジネスからのキャッシュフローを維持しながら、来るべき変化に備え、(その既存のビジネスを破壊する)新しいビジネスに向けて積極的な先行投資をする」という非常に難しいかじ取りをしなければなりません。まさにクレイトン・クリステンセン氏の言う「イノベーションのジレンマ」です。

そんな自動運転サービスをスムーズに導入するためには、専用道路や専用ゾーンを作るなどの大規模なインフラ整備が必要で、東京のような大都市に導入するにはコストがかかりすぎます。

その意味では、いきなり都市部でサービスをスタートするよりも、はっきりとしたニーズがある場所(たとえば、老人が移動手段をなくしつつある日本の過疎地)に向けた小規模なサービス(最初は人が運転するバスでも良いと思います)を丁寧に立ち上げ、そこでノウハウを溜め込みながら、少しずつ市場を(自ら)切り崩していくのが賢い選択のように私には思えます。

この変化は、その大きさゆえに20年くらいかけてゆっくりと起こるでしょう。そのゆったりとしたスピードゆえに、既存の自動車メーカーは「ゆでガエル」状態に陥りやすいので注意が必要です。トップが常に危機感を持ち、明確なビジョンに向け、たゆまずメッセージをアウトプットする必要があります。

また、過去のインフラを抱える東京のような大都市も、その変化について行けずに、中国共産党の独断で作られたまったく新しいメガシティなどに大きな遅れをとってしまう可能性が高いと思います。遷都も含めた、大胆な政治決断が必要な時期が来ているように思えます。

講演の内容は以上でした。その後、質疑応答コーナーに移ったのですが、その際にとても活発なディスカッションができたのです。

私が講演のなかで、日本の過疎地向けの配車サービスについて話したときのことです。新たな配車サービスは、既存の路線バスのように、決められた停留所を回る方法ではなく、「乗りたい」と思った人のもとへ向かう方法が良いと思いました。

ただし、そこには大きな懸念があります。それは、「乗客がどうやって自動運転車を呼び出すのか」ということです。スマホアプリという選択肢がすぐに思い浮かびますが、このサービスのメインユーザーは、自動車を運転しなくなった年配の方々。つまり、アプリで呼び出してもらうのは何かとハードルが高いのです。

私も、その最適解が見つからないままでした。講演の中でも、「スマホのインターフェイスが課題」だと指摘していたのですが、質疑応答コーナーで、ある参加者さんから「アマゾンダッシュボタンのようなデバイスを使って、ボタン一つで病院にまで連れて行ってくれるようにすれば良いのでは?」というアイデアが出たのです。

アマゾンダッシュボタンとは、左ページにある、アマゾンが提供するボタンつき専用デバイスのこと。日本であれば洗剤の「アタック」にはアタックの、「南アルプスの天然水」には南アルプスの天然水専用のアマゾンダッシュボタンがあり、注文したくなったら、ワンプッシュで注文が完了するデバイスです。高齢者向けに需要があるのは、「病院・スーパー・役所・健康センター」などでしょうから、それぞれのアマゾンダッシュボタンのようなデバイスを用意すれば、懸念は解決します。この提案はとても秀逸だと思いました。

講演後に、懇親会にも参加したのですが、「福井県の鯖江市は、市長が高齢化に危機感を持ち、先進的なアイデアに耳を傾けてくれる。そんなサービスの実証実験をするには良いかもしれない」という意見もいただき、実際に鯖江市まで行って提案してみるのも悪くないと感じました。

このように、私の中で明確な答えが出ていなかったことも、講演会という公のアウトプットをしてみることで、思わぬ最適解、つまりインプットを得ることができたのです。私にとって、とても印象的な出来事となりました。

懇親会といえば、その後に行われる二次会には基本的に参加しません。これが懇親会ではなく、名刺交換会や何らかのパーティーでも同じですが、二次会へ行っても、大して得るものはないからです。代わりに、懇親会で話してみて、もうちょっとじっくりと深い話をしたいなと思ったり、その人と組んで何かプロジェクトを進めたいと思った人がいたら、声をかけてサシで二軒目に向かうようにしています。これならば、単にお酒が入って楽しいだけだったり、なかなか深い関係を築けない二次会よりもよっぽど有益なのです。

 

◉興味のある分野が同じ人との会話が思考のイノベーションを生む(206ページ)

人に話してみる(アウトプットする)ことで、思わぬインプットを得ることができる。もう一つ、その例をお話ししたいと思います。

以前、ホリエモンこと堀江貴文さんと対談したときのことです。

私自身が自動車メーカーをクライアントにして仕事をしていることもあり、「自動車業界に訪れている大変化」だとか「自動運転が実現されたときの社会のあり方」などは常日頃から考えていますし、メルマガなどを通じてもアウトプットしています。

「自動車メーカーが単なるメーカーのままでいては、コモディティ化してしまう」など、すでに明らかになってきたこともありますが、なかなかはっきりとした答えが見つからずに、モヤモヤとしている問題もあります。

その中の一つが、「シェアリング・エコノミーとパーソナルスペース」の両立でした。

人が自分の自家用車(ひと昔前の言い方をすれば、マイカー)を持つ理由はいろいろありますが、大きく分けると、次の4つになります。

・財産になる

・ステータスシンボルになる

・いつでも好きなときに使える

・パーソナルスペースを持てる

1番めの「財産になる」ですが、自動運転+シェアリング・エコノミーの時代になると、まったく意味をなさなくなることはおわかりいただけると思います。車の稼働率がケタ違いに高くなるため、シェアした方が一乗車あたりのコストは圧倒的に安くなるからです。そもそも、車検代や保険料、駐車場代や税金などを考えると今現在ですら財産と呼べるか怪しいものですが。

2番めの「ステータスシンボルになる」は人間の根源的な欲求に根ざしたものなので、ある程度は残ると思いますが、最終的には、現在でいう「競争馬を持てるくらいリッチだ」といった、象徴的なものになると思います。

3番めの「いつでも好きなときに使える」は便利さについての話ですが、すでにカーシェアリングサービスや(人間が運転する)Uberでさえ、自家用車よりも多くのシチュエーションにおいて便利なことが証明されています。自動運転+クラウド配車の時代になれば、便利さにおいてもシェアした方が上回ることは明らかなのです。

私がモヤモヤしていたのは、4番めの「パーソナルスペースを持てる」についてでした。一人で自動運転車に乗ればプライバシーの問題は解決できるし、インフォテインメント(音楽やカーナビ)も技術でなんとかできます。しかし、みんなでシェアする以上、「不特定多数の人が座った、汚れていたりする可能性のあるシートに座らなければならない」という問題だけは解決しようがありません。私は、この答えをずっと探していたのです。

しかし、堀江さんが対談中にこう言いました。

「でも、もし自動運転車が普及していけば、でっかいバスみたいなのを作って、今のお年寄りとか障害者の優先席みたいな場所を作って、ワイヤレス充電のスポットみたいにして、そこにガチャンとパーソナルモビリティ(以降、PM)がつながるようにして……」

そう聞いたとたん、私の中でそれまでバラバラだったパズルが、一気に組み合わさったような感覚に包まれました。そして、私は「ひょっとしたら、PMが普及したら、バスの中には椅子はいらないですよね。みんなが持ってるわけだからね」と続けることができたのです。

堀江さんはとても頭の回転が良いので、すぐに私が言っていることを理解してくれて、そのまま話が発展しましたが、実はここで、先述の「自動車のシェアリングにおけるパーソナルスペース問題」を解決するイノベーションのタネが生まれた、と私は感じました。

わかりやすく言えば、堀江さんの頭の中には「電気自動車の充電問題は、電気自動車の『入れ子』で解決できる」というアイデアがあり、それが私の頭の中にあった「自動車のシェアリングにおけるパーソナルスペース問題を解決したい」というモヤモヤ感と化学反応を起こして、「全員が(低速の)PMで移動するようになり、そのままシェアリング自動車に乗り込めばパーソナル空間を提供できる」というイノベーションに結びついたのです。

ちなみに、ここで言うPMとは、低速で動く軽量の電動車椅子のようなもので、ホンダの「UNI-CUB」やアイシンの「ILY-A」のようなものをイメージしてもらえば良いと思います(もちろん、もっと車椅子っぽいものでも良いし、健康のために人力が必要なものもあって良いと思います)。

誰もがこんなPMを持っていて、かつ、それが自動運転車のシェアリング・ネットワークとつながっていれば、PMに行き先を入れるだけで、近いところであればPM自身が自動運転で連れて行ってくれるし、中距離以上であれば、より大きな自動運転車を呼び出してくれ、それにPMごと乗り込んで行き先(もしくは行き先の近く)まで連れて行ってくれるというわけです。

行き先を指定する際に、時間優先、値段優先、プライバシー優先などの指定ができるため、自分だけのプライベート空間がほしい人は「プライバシー優先」を指定すれば、一人乗りの小型の自動運転車を呼び出してくれて、自家用車と同じような「個人の空間」を持つことができるのです。

「全員がPMで移動する世界」というのはちょっと想像しづらいと思いますが、携帯電話が発明される前に「あらゆる人がポケットに電話を入れて歩く時代」が想像できなかったのと同じで、あまりにも斬新なアイデアは、今の社会やライフスタイルと違いすぎて、簡単には受け入れられないものです。

もちろん、この手の斬新なアイデアを実現するためには、数多くの障害を乗り越える必要があります。「そんなものは必要ない」「そんなものはSFの世界だ」「そんな先の問題よりも、当面の問題を解決すべき」というネガティブな反応をする人が大半のなか、資金を集め、人を集め、協力してくれる企業や自治体を見つけ、技術的・法的・経済的問題を一つずつ解決していかなければならないのです。

私にとって日常のアウトプットの延長であった対談でしたが、堀江さんからの思わぬインプットによって、モヤモヤしていた部分が一気に晴れ、さらに思考を深めることができました。堀江さんはとても想像力豊かな方ですが、かといって「ホリエモンが相手だったから」というわけではないはずです。たまたま彼と私の興味のある分野が共通していたことが大きいと考えています。自分の中でモヤモヤとしているものを人に話してみると、意外なインプットが得られる可能性は十二分にあるのです。


会話におけるアウトプットの重要性

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉私の考える「良い会話」とは(190ページ)

会話においてもっとも大切なことは、「相手の言っていることをきちんと聞く」こと、そして「聞いていることを明らかにする返事をする」ことです。

当たり前の話かもしれません。しかし、こんな当たり前のことができていない人が意外と多い。それは、世間的に「コミュニケーション上手」と思われている人であっても当てはまります。

何しろ、国民的報道番組の元メインキャスターでさえ、会話の基本を押さえられていなかったのです。具体的な個人名は伏せますが……。番組内で、そのキャスターが、専門家やアスリート、事件の関係者などにインタビューする企画が何度もありました。しかし、その聞く姿勢がどうも気になってしまうのです。

インタビューとはいえ、1対1の会話であることに違いはありません。会話は本来、こちらが質問をして、それに相手が答えたら「なるほど」や「そうですか」などと受け答えするのが常識です。しかし、彼の場合、そういった受け答えが一切ありません。驚くほどそっけなく、次の質問に行ってしまうのです。

本人としては、ちゃんと話を聞いているつもりなのでしょう。しかし、お茶の間の私ですらマズいと思っているのですから、現場のインタビュー相手はもっと思っていたはず。これでは聞いていないも同然ですし、インタビュー相手に対して、とても失礼だと感じました。

また、意外な答えが出てきたり、知らない情報が出てきたら、それをさらに深掘りするのがインタビューの基本。いや、むしろそれこそが人と人とのコミュニケーションであり、気持ちの良いコミュニケーションのはずです。よく「会話のキャッチボール」とたとえられますが、良いコミュニケーションとはこういったことを指すのです。反対に、禅問答のように聞きたいことだけ聞いて終わりというスタイルは、褒められたものではありません。

一方、「ニュースステーション」でメインキャスターを務められていた久米宏さんは、このコミュニケーションがとても上手な方でした。インタビューでは、事前に質問を用意していくものです。テーマの方向性やおおまかな着地点などもあらかじめ決めていくのが基本です。だからこそ、先に触れたキャスターは淡々とインタビューを進めたのではないかと思うのですが、久米さんはそれでもインタビュー相手の話をきちんと聞いている姿勢が見られました。久米さんが聞きたいことを聞くために話題を変えるにしても、丁寧にワンクッション置くのです。

また、やや明確さに欠ける部分をきちんと詰めたり、適宜アドリブも入れながら、それでいて自分の聞きたいことは聞いていくスタイルでした。見ていてもとてもわかりやすく、とても心地よかったのです。私がこう思うのですから、インタビューされている側も話しやすかったはずです。

この話の「インタビュー」のノウハウは、「日常会話」にそっくり当てはめることができます。

聞きたいことが多すぎて、前のめりになってしまうこともあるでしょう。聞きたいことが多いと、その先が知りたくなるものです。しかし、いったん落ち着いて「わかります」や「そうなんですか?」などの一言でもよいので伝えることが大事なのです。

こちらが話そうとするのであれば、それ以上に相手の話を聞かないといけません。ざっと、聞く:話す=7:3くらいという目安を持っていたほうがいいでしょう。

ここまでは最低限押さえておくべき会話の基礎編ですが、せっかくなので少し応用したものをご紹介しましょう。

これは知人と話していたときのことです。その人は、運転中に急な割り込みをされたそうです。かなり危なっかしいものだったらしく、私に「あの人はなんで、あんなことするんだろう……」と話しかけてきました。

この文章は、文字通りに取ると「なぜ、あの人は急に割り込んだんだろう?」という「Why」から始まる質問になります。「なぜなのか」と〝理由〟を聞かれたのだと考えた私は、「たぶん、急いでいたんじゃないかな」と答えました。ところが、相手は何やら腑に落ちない表情です。

似たような経験をした人は多いと思いますが、私が求められていたのは、「なぜ割り込んだのか」という答えではありませんでした。「あの割り込みは許せない!」という怒りを〝共感〟してほしかったのです。ですから、私の答えは相手からすれば見当はずれ。私としては、状況をきちんと判断するためにも当時の混雑具合なども聞きたいところですが、正解は、「ほんと、ヒドいよね」なのです。

相手が何を求めているのか、きちんと見極めることもコミュニケーション能力の一つということです。

 

◉初対面の話題に天気はいらない(195ページ)

食事会やイベント会場など、初対面の方とコミュニケーションを取る機会がたまにあります。初対面の人との会話でよくあるのは、最近の時事ネタだったり、天気や気温を話題にすることでしょう。

私はというと、形式的な挨拶は省き、いきなり「その人がふだん何をしているのか」、「どういう仕事をしているのか」といった部分から聞くようにしています。これは、なるべく早いうちに相手がハマっていることを聞き出し、それと同時に自分がハマっている対象もいち早く伝えることで、会話に意味を持たせたいからです。

誰でもそうですが、突っつくといくらでも出てくる「話題のツボ」があります。話し下手と言われる人でも、承認欲求がありますから、自分がハマっている趣味や分野に関しては話題が出てくるものです。私は、初対面の人のそんなポイントを極めて素早く突っつくようにしています。

そのポイントは、黙っていてわかるものではありません。話してもらわないとわからないのです。その話題を振ってさえいれば会話が盛り上がってビジネスや深いつき合いにつながったかもしれないのに、別れ際や、後から知ったりするのは非常にもったいない。だからこそ、とりあえず自分の好きなこと、そして相手の好きなことを話し合うというスタンスをとっています。要は、お互いしゃべりやすくなる環境を作っているのです。

普通、人間は興味のあることが複数の分野にまたがっているはずです。私だったらプログラミングやコンピューターの話だけでなく、テニスや料理の話など、ざっと10個くらいはあるわけです。そういうお互いの興味のあるところを披露しているうちに、マッチするものがあれば深掘りしていきます。

面白いのが、特に興味を持っていなかった話題でも、意外と盛り上がること。たとえば、先日、ある食事の席で医師の方と出会いました。彼は、バイオエンジニアリングについて研究している人ですが、その内容で話に花が咲きました。

私は基本的に理科系一般の話に興味がありますが、バイオ分野に関する興味はこれといってありませんでした。しかし、以前「市販されている薬がその人に合うかどうか、DNA検査によって調べることができる」という話を聞いたことがあったので、彼に投げかけてみたのです。すると彼は、DNA検査の話やその他のバイオテクノロジーの話を喜んで話してくれました。

さらに、「DNA検査をはじめ、最新テクノロジーの登場によって医学がものすごく進歩しているのに、当の医者があまり勉強していない」という医療現場の問題点まで打ち明けてくれたのです。何気ない会話がきっかけでしたが、私にとって勉強(インプット)になったのは言うまでもありません。

こうやって、会話が思わぬ方向に向かうことで、かえって盛り上がることも珍しくありません。だからこそ、自己紹介などの会話の早い段階で、まず「自分が深掘りできる話題」を出してみましょう。そして、相手が食いついてきたら躊躇なく、会話を展開していく。そんな会話こそが、良いインプット、ひいてはアウトプットにつながっていくのです。

 


あらゆる文章は実践あるのみ

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉アウトプット実践編。200字で解説してみよう(169ページ)

第1章で、文章は「情報を伝えるためのツール」にすぎないとお伝えしました。そして、この事実を知ったときに、これまで持っていた文章への苦手意識がものの見事に消えていったともお伝えしました。

それでも苦手意識がある人もいるでしょう。自分の書いた文章を「正しく理解してもらえないのではないか」と不安に思っている方も多いと思いますが、これは練習によって克服することが十分に可能です。そこで、ここからは実際にアウトプットの練習をしていきましょう。

全国の小・中学校では、今なお読書感想文を書かせているようですが、良い読書感想文として求められる感情や情緒の伝達というのは、高度なテクニックです。文章がうまくなるには、いったんそれらを排除し、「情報(事実)の伝達」に絞ってトレーニングすべきです。

つまり、小学校の国語の授業であれば、小説を読んで読書感想文を書くのではなく、たとえば、「ランドセルとは何か」ということを、一度もランドセルを見たことがない人に200字以内で説明させるような課題を与えるべきでしょう。

本来であれば、こういった形の作文の授業を続けていれば、「文章とはものごとを簡潔に、わかりやすく伝えるためにあるものだ」ということを直感的に理解してもらえるし、本当の意味での文章力が養えたのです。

にも関わらず、今の教育は「ランドセルをテーマにした詩や文章を書きましょう」といった高度なことを、簡単な説明文すらまだ書くことのできない子どもたちに要求するため、大半の子どもたちは「何を書いたらいいかわからない」という部分で行き詰まってしまい、結果的に(私のように)何も得られない不毛な国語の時間を過ごすことになってしまうのです。

これは子どものみならず、大人にも言えることです。アウトプットとして書評ブログをやろうとしている人は、この弊害が出て、踏みとどまってしまうかもしれません。

そこで、試しに、「ランドセル」をテーマにしてみましょう。まずは、良くない例から。〝文学的〟であることを期待されている文章を私なりに書いてみると、次のようになります。

 角を曲がると、その先に小学生が6、7人固まって歩いているのが見えた。ランドセルが背中の半分以上を覆い隠しているため、まるでランドセルから足が生えているようだ。だらしない歩き方をしているため、時々ランドセルの一つが車道にはみ出す。私はその度にハラハラしてしまうのだが、だからといって注意する勇気はない。

この手の文章は、客観的に評価するのが非常に難しくなってしまいます。「足が生えたランドセル」という表現を滑稽と感じる人もいれば、「文学的に見せようとしていてあざとい」と感じる人もいるからです。この手の文章は、書くのが難しいだけでなく、読者にとっても評価が分かれる(教師にとっても採点するのが難しい)、教材としてまったく不適切なものなのです。ところが、こういった文章ではどうでしょうか。

 ランドセルとは、日本の小学生が教科書、ノート、筆箱などを入れて背負う革製のカバンである。重い教科書が入った肩掛けカバンや手提げ鞄を成長期の子どもたちが持ち歩くと、背中が曲がるなどの成長障害につながるため、両肩に均等に重さがかかるように設計されている。祖父母が孫の入学祝いに贈るのが慣例となっている。

こんな説明文であれば、「成長障害につながるため」ではなく「成長障害につながる可能性がある」の方が正確だ、同じく両肩にかけるリュックサック・ナップザックとの違いがわからない、2番目の文の主語(ランドセルは)の省略はちょっと冒険だけど、あいまいさはないので悪くない、などの客観的な評価が簡単にできるのです。

本来であれば、小・中学校での国語教育で、まずはこのレベルの感情が入らない説明文の書き方を徹底的に鍛えるべきでした。そして、ある程度それができるようになってから、(中学の高学年、もしくは高校から)初めて自分の意見が入る文章を書かせれば良いと思います。何度も言うように、今現在、文章に対する苦手意識を持っている大人にも同じことが言えます。

さらに付け加えると、自分の意見を込める文章として、読書感想文は向かない題材だと私は思います。「はっきりした目的」がないからです。あえて言えば「教師から良い評価を得ること」が目的ですが、それでは評価の基準が曖昧すぎて、「いかにも優等生の中学生が書きそうな感想を書こう」という本末転倒なことになってしまいます。

たとえば、先のランドセルの例を拡張して「高学年になるとランドセルを使わなくなる子どもたちがいることを問題視し、少なくとも小学校を卒業するまではランドセルを使うべきだ」というメッセージを含んだ説得力のある文章にするにはどうしたらいいのか、といった練習をした方が、文章力もつくし、世の中に出てから役立つのです。

さて、ここでワークです。これまで一度もランドセルを見たことがない人に向けて「ランドセルとは何か?」というテーマで、200字以内でまとめてみましょう。

 

◉ビジネスメールや文書はこう書く(182ページ)

多くの人が盛んに使っているコミュニケーションに「メール」があります。私がメールでのコミュニケーションについて学んだのは、マイクロソフトの本社においてでした。

特に、スティーブ・バルマーとのエピソードは感動すら覚えたほどです。バルマーは、1998年にマイクロソフトの社長に就任、2000年にはビル・ゲイツから最高経営責任者を引き継いだ人物です。アメリカでも屈指のエグゼクティブであり、当時から常に時間に追われているような人物でした。

当時の私といえば、名もなき一プログラマー。彼は、そんな私のメールですら読んでくれていました。私のメールをチェックしているということは、マイクロソフト社内の社員のメールをほぼ全部チェックしていることになります。当時からマイクロソフトは何万人という規模の従業員がいました。外部からのメールを合わせたら、その確認や返信だけで1日の大半が終わってもおかしくないような状況ですが、彼はきちんとチェックしてくれていたのです。

そんな状況のなか、彼は返信してくれました。もちろん、ダラダラと返信していると時間がいくらあっても足りません。ですから、メールの文面は極端に短い。

私が一番感動したメールが、スティーブにちょっと複雑なことを頼んだときのことです。当時の私は、他のグループにやってもらいたいことがありました。そのグループに私が直接お願いしてもらちが明かない状況だったので、スティーブに「仲介してほしい」という旨をメールしたのです。そのメールを読んでもらえるのかすらわからない状況でしたが、とにかく返事を待つしかありません。すると、しばらくしてから返信が来たのです。

そこには、二つの単語がアウトプットされていました。

Will do.

「了解です」や「任せて」といった意味で、「I will do.」を略したものです。

時間にすれば一瞬で終わってしまう返信。もしかしたら「なんだか冷たいな」と思われる方もいるかもしれません。しかし、これを受け取った私は、わざわざ返事をしてくれたこと、そして、その返事が肯定的だったことへの嬉しさに加え、強い衝撃を受けたのでした。

主語「I」が省略されているのはもちろん、通常あるべき署名もありません。今ではLINEやSlackによってチャットでのやり取りは日常的になりましたが、当時はメール全盛の時代。「一流の人はこんなメールの使い方をするのか……」とただただ、驚いたのでした。

文自体は異様に短いものの、即座に受け手に意味が伝わり、結果的に過不足のないコミュニケーションが取れている。こういうスタイルだからこそ、スティーブは何万人規模の会社を率いていても、一兵卒から来たメールに応えられるわけです。この返信の根本には、どのくらいの密度で社員とコミュニケーションしたいかという意識が表れているのです。

この出来事以来、私のメールの文面も自然とシンプルになってきました。メール相手との関係にもよりますが、メールに書く文面は基本的に用件だけ。

日本では「〇〇様」から始まりますが、ほとんどのメールにおいて、メッセージを伝えたい相手は明らかになっているので本来は不要。わざわざ「いつもお世話になっております」と書く必要もありません。英文メールであれば日本語で「よろしくお願いいたします」という意味の、「Best regards」や「Regards」を書くことはありますが、無駄なものはなるべく省き、コミュニケーションの密度を高めるようにしています。

さすがに、初回のメールへの返信として「Hi」は使いますが、その後のやり取りとなると、もはやチャットレベルの短さです。

先日もスウェーデンの知り合いがシアトルに来ていて「金曜日まで(シアトルに)いるけど会えない?」というメールが来ました。私の返事はというと、「Yes, How about Thursday morning?」(いいね。木曜日の朝はどう?)。彼からの返信は「Great」という、ものすごくシンプルなやり取りでした。彼とはフランクなトークができる間柄ですが、これが日本でのやり取りとなると、「場所はどちらがご都合よろしいでしょうか?」などと書いてしまいがちです。

最近ではチャット系のアプリが普及し、コミュニケーションの密度は高くなりました。私も、Slackでやり取りすることが増えています。メールでは後から人を追加しづらいこともあり、長く続くプロジェクトなどでは活用していますし、中国人が相手の場合は「We Chat」を使うことも。「カカオトークでお願いします」と言われた人とはカカオトークでやり取りしています。このように、相手に合わせてチャットアプリを使い分けています。

コミュニケーションの特性でいえば、日本発と言える「絵文字」は面白い文化だと思っています。アメリカにいるとよく感じますが、アメリカ人は自分の意見をはっきりと伝える傾向にあります。対して、日本人の傾向として、はっきりと意見を言うことが苦手。少し面倒な作業をお願いするときも、遊びの誘いを断るときも、「今日は行けない」ではなく「今日はちょっと難しい」などと行間を読ませようとしたり、ニュアンスで伝えがちです。そんなとき、非常に役に立つのが絵文字です。汗を書いている表情や泣いている表情などは、「申し訳ないと思っている」「本当は行きたいんだけど……」といったニュアンスを上手に伝えてくれます。

海外ではすでに日本語の「emoji」という単語が使われていて、日本発の文化が、今や世界に広がりつつあります。さすがに、ビジネスの場面ではまだ使いづらい状況ですが、近いうちに絵文字を使ったコミュニケーションも当たり前になってくるのではないかと予想しています。フェイスブックのメッセンジャーやSlackなど、おもにビジネスで活用されるチャットアプリにもすでに導入されています。ビジネスシーンで盛んに使われる可能性もかなり高いと言えます。

今回は、返信の仕方をもとに、コミュニケーション特性の話題を取り上げてみました。アウトプットにおいても、この密度というものを意識しておいて損はないでしょう。

 


アウトプットに遠慮や忖度が必要ない理由

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉自分では気づかない「好きなこと」の見つけ方(73ページ)

これまで、「好きなこと」を追求すべきということをお伝えしてきました。すでに好きなことが見つかっているのであれば、さっそくアウトプットを始めてみましょう。

しかし、実際のところ「そうはいっても、好きなことが見つからないんだよなぁ」と思っている方も多いのではないでしょうか。「趣味と言える趣味がない」「『休みの日は何しているの?』と聞かれてもマンガを読んで、食べて、寝て終わり」などなど……。

また、親や先生から「勉強しろ」と言われとりあえず勉強して、いい大学に入って、就職の人気ランキング上位の会社や流行りの業界には入ったものの、本当は何が好きなのか未だにわからない、という人は少なくないはずです。

私は幸運なことに、好きなことを探して見つけるのでなく、偶然に出合うことができました。きっかけをくれたのは、私の叔父です。母方の親戚に、壊れた自転車が2台あれば、それを合わせて新しく1台作ってしまうような「機械大好きおじさん」がいました。

私はその叔父のことが好きで、ふだんから仲良くしていました。ある日、そのおじさんが興奮気味に「NECが、『TK80』というマイコンを発売したぞ!」と教えてくれたのです。

そのことを聞いたとき、直感的に「これは絶対ほしい。手に入れなきゃ!」と思ったのです。当時の値段で、8万円くらいです。お年玉をかき集めても買えないような高価な代物でしたが、それでも「必ずもとを取るから」と親を説得して、なんとか手に入れることができました。

マイコンからプログラミングに触れた最初の1か月間は、どのようにプログラムを入力すればどう動くのか、さっぱりわかりませんでした。当時はわかりやすい教科書もありません。とにかく仕様書のサンプルコードや雑誌に載っているプログラムコードとにらめっこの日々。しばらく仕組みがわからない日々が続きましたが、けれど不思議と諦めることはありませんでした。

結局のところ、プログラミングは概念・思考プロセスの理解の問題です。プログラミングとはなんぞや、それがわかったのは本当に突然でした。目の前の壁をがむしゃらに叩き続けていたら急にガラガラと崩れたような感覚で「なんだ、そういうことか!」ととたんに腑に落ちました。プログラミングが楽しくて仕方なくなったのは、そのときからです。目の前の道がパッと開けた感覚は、今でも鮮明に覚えています。

このときプログラミングに夢中になって、それがいつの間にか仕事になったので、自然と好きなことが見つかり、いつの間にか仕事としてお金を稼ぐようになっていました。

これは私の息子の話ですが、彼はシアトルの日本料理店でシェフをしています。

彼が料理好きであることがわかったのは、ひょんなことがきっかけでした。私がプログラミングに関わることならいくらでも頑張れるように、息子が料理のことであればいくらでも頑張れるということに、ある日気がついたのです。

私の息子が高校2年のとき、たまたま近所の日本食レストランの厨房でアルバイトをすることになりました。すごく厳しい労働環境で低賃金でこき使われる、典型的な「ブラック職場」でした。ほかの高校生は2週間もしないうちに辞めてしまったそうです。しかし、なぜか、うちの息子に限って、何か月たっても辞めないのです。その厳しい職場に、「何か」を見つけてくれたのだと思います。

別に私たち親が気がついたからとか、サポートしてあげたからということではありません。多くの人が自分の好きなこと、自分が一番幸せな瞬間に気づけないままでいる昨今、まず息子本人が自分の好きなことに気づけたことがラッキーでしたし、それが親である私たちに伝わったこともラッキーでした。

その後、息子は通っていた大学を辞め、料理の学校に通いました。私たちはそれに対して「もったいない」と思ったことは一度もありません。今では彼は好きなことをして食べていく人生を送っています。

もちろん、アメリカでも飲食業は厳しい世界です。なんとなく選んだ企業に務め、サラリーマンになっている方がよほど安定しているでしょう。しかし、毎週月曜日になると悲しい顔で会社に向かう人生よりも、ずっと充実していると思います。もし、今の仕事がつまらなく、飲み会で仕事の愚痴を言い合っているようなら、あなたの人生は正しい姿ではありません。

では、いったいどうすれば好きなことを見つけられるのか。

一つの方法として、「ベーシックインカムが導入されたら、あなたは何をするか?」と考えてみることは有効だと思います。

ベーシックインカムとは、「政府がすべての国民に対し、最低限の生活を送るために必要な額の現金を定期的に支給する」という政策。機能しなくなることが明白な年金に代わる社会保障政策として注目され、各国で議論に上がるものの、本格的な導入にはまだまだ時間がかかりそうです。しかし、本当に好きなことを考えるきっかけとしてはなかなか興味深いと思っています。

仮にベーシックインカムが導入されたとすれば、一人あたり月に6~7万円が入ると想定されています。十分な金額かどうかはいったん置いて、考えてみましょう。

食べていくため、家族を養うために働いている人も多いと思います。では、生きていくために好きでもない仕事をしなくてもよい未来が訪れるとしたら……。そんな社会が実際に訪れたら、あなたはいったい何をするでしょうか?

ちなみに、冗談抜きでベーシックインカムが導入される時代が遠くない未来に来るかもしれません。また、産業革命や機械の飛躍的な進化によって人間が単純作業から解放されたように、AIやロボットの進歩によって、人間が仕方なくやっていた作業が減っていくと予想されています。

もう一度お聞きします。政府から、最低限暮らせるお金が毎月支給されるようになりました。食べるために仕事しなくてよくなる未来、あなたは毎日何をして生きていきますか?それこそが「好きなこと」の正体なのです。

「諦めていたミュージシャンになる夢を追いかけたい」

「昔から絵を描くことが好きで、本当は一日中描いていたい」

「今は仕事で忙しいけど、作ってみたいスマホアプリがある」など……。

やってみたいことが見つかったなら、さっそくアウトプットしてみましょう。

この、「アウトプットしてみる」というのは、本当に好きなことかどうか判断する方法でもあります。ブログで書いてみて、それが続くようであれば、あなたは本当に好きなものと出合えたというわけです。

そうすると今度は、自分の好きなことと世間のニーズがマッチしているかどうかも分かるようになります。自分の好きなものや異常なこだわりが身近な友達や同僚には理解してもらえなくても、ネット上にアウトプットしてみたら、たくさんのリアクションがもらえるかもしれません。

今ではすっかり「大衆」という概念が希薄化し、趣味嗜好が多様化しています。たとえば、昔なら「ただのキャンプ好き」で終わっていた人でも、経験から得られた情報を発信してみることで、多くの人におもしろいと思ってもらったり、アウトプットした情報を有益と感じてくれる人がいるのです。

そして、ネットを使ったアウトプットなら、読者やユーザーのリアクションをリアルタイムに把握することが可能です。ニーズがある部分をもっと深掘りしていくと、さらに人気を集めることだってあります。人には誰にでも承認欲求があり、求められると嬉しいもの。自分が好きなことで、なおかつ、求められているものを発信できる。そんな好循環が生まれれば、楽しくないわけがありません。

書いたからといって、すぐにお金や信用に換わるわけではありません。だから、本当に好きなことでないと続きません。途中で投げ出してしまったなら、本当に好きなものではないということです。ここで別に悩んだり、落ち込む必要はありません。他のものを試してみれば良いのです。そう、アウトプットしてみることで、自分が本当に好きかどうか確かめることができるのです。

別のテーマで書いてみて、それでも続かなければまた別のテーマをやってみる。そうやっていろいろと試しているうちに、自分の好きなものに出合うことができるはずです。

言い換えれば、もしすでにブログなどを書いている人がいて、なんだか筆が進まない、いまいちだと思っていたら、今よりも面白そうなことを見つけてみましょう。

「石の上にも三年」ということわざがありますが、好きなことを見つける中では、気にすることはありません。いい意味で、いろいろなテーマを食い散らかしていいのです。アウトプットについては、浮気性でも何ら問題ありません。

「ベーシックインカムが導入されたら、あなたは何をするか」、そして「アウトプットしてみて、1か月以上ムリせず毎日続くのか」。これこそがあなたにとってのリトマス試験紙になるのです。

 

◉アウトプットは仮説でOK(120ページ)

前項では、私がいかにして最新情報を捉え、かつ自分なりに消化し、一見バラバラの事象を一つの流れとして捉えているのか、その方法論をお伝えしました。

「アップルがサムスンとOLEDパネルの値段交渉をしている」と読んだとたん、少し前に読んだ「LGがOLEDパネルの製造に手間取っている」という記事が自然に頭に浮かぶようになったのです。

このように、事実としてアウトプットするときもあれば、ときに〝仮説〟をアウトプットする場合もあります。しかし、それもまたれっきとしたアウトプットですし、仮説をアウトプットすることがまた、良質なインプットにつながります。私はそんな教訓をブログから得ることができました。

一つの良い例をご紹介しましょう。

エンジニアとして仕事をしている中で、私にはずっと答えの出ない疑問がありました。それは、「なぜ、日本のソフトウェア会社はアメリカに敵わないのか」ということです。

私は、マイクロソフトで働く前はNTTの研究所に在籍し、高校時代からアスキーでソフトウェアの開発に携わってもいました。日本人エンジニアの友人もたくさんいます。アメリカ人エンジニアに比べて日本人エンジニアが劣っているとは思いませんが、世界で見ると日本のソフトウェア業界はやはり「弱い」のです。この謎を、私はマクロ的に知りたくなりました。

最初は、日米の間に技術的な格差があるのだと思っていました。しかし、調べていくと、思いもよらないことが明らかになったのです。

日本でのソフトウェアの作り方がアメリカでのそれとは大きく異なっていること、そして、日本のソフトウェアエンジニアの境遇が悪すぎること。これが、日本のソフトウェアが世界で通用しないことの一番の原因になっているのです。

アメリカのソフトウェアビジネスは、ベンチャー主導型で成長してきました。マイクロソフトにせよ、グーグルやアップルにせよ、この業界を牽引する会社のほとんどが「起業家」によって作られたベンチャー企業です。そういった企業は、基本的に開業資金を起業家本人や家族、知人から集めた〝自己資金〟で賄います。自己資金で会社を立ち上げ、少し軌道に乗ったところでベンチャーキャピタルと呼ばれる投資家から資金を集め、会社をさらに大きくしていくのです。

そこでの政府の役割は、起業家が会社を上場させたときに得る利益(創業者利益)への税率を低く設定して起業家精神を刺激したり、巨大な企業が既得権やマーケットシェアを利用して、ベンチャー企業の市場への進出を不当に妨害したりしないように監視することです。

上場企業ではなく、わざわざベンチャー企業に投資する投資家たちは、ハイリスク・ハイリターンを承知で投資しています。当然ですが、そんな投資家を株主に持つベンチャー企業は、利益率の高い「知識集約型ビジネス」を選ぶことになります。これは、知的所有権など、頭脳が生み出す「価値」そのものに対価を払ってもらうビジネスのことで、マイクロソフトがウィンドウズやオフィスなどで確立した「ソフトウェアライセンス」というビジネスがその典型と言えます。

そんなアメリカのソフトウェアビジネスにおけるエンジニアは、メジャーリーガーのような存在。ストックオプションなどを駆使Dした魅力的な雇用条件で優秀な人材を集め、スポーツ施設や無料のレストラン、一人ひとりに用意された広い個室などの心地良い労働環境を提供し、彼らの生産効率を上げることが、ビジネス上もっとも大切なことの一つです。グーグルやアップルのオフィス空間がさまざまな面で「快適すぎる」という特集を見たことがある方は多いと思いますが、こういった背景もあるのです。

優秀なエンジニアとそうでないエンジニアで、生産効率の差は20倍にもなると言われます。本当の意味での「価値」を生み出せる優秀なエンジニアはごく一部。その違いが給料やストックオプションに直接響いてくるし、優秀な人材は常にライバル会社のヘッドハンティングのターゲットとなります。もちろん、優秀でない人はすぐに解雇されるという、真の意味での「実力社会」でもありますが。

一方、日本におけるソフトウェアビジネスは、銀行と同じく、官僚主導で作られたようなものです。旧郵政省・通産省の主導のもと、「日本のエレクトロニクス産業・IT産業の育成のため」という名目で、海外の企業を締め出してきました。そのかわり、官庁や旧電電公社のような特殊法人が、国内の選ばれた数社からほとんど競争もない形で平等に「調達する」というやり方が、高度経済成長の時期に形作られました。

この官僚主導による「IT産業の育成」が、ある時期にそれなりの経済効果をもたらしたことは否定できない事実です。しかし、一つの大きな弊害を日本のソフトウェア業界にもたらしたことも揺るぎない事実なのです。それが「ITゼネコンビジネスモデル」。「プライムベンダー」と呼ばれる巨大なIT企業が大規模なソフトウェア開発を受注し、実際のプログラミングは「下請け」と呼ばれる中小のソフトウェア企業が行うという、まるで建設業界のような構造ができ上がってしまったのです。

そして、このITゼネコンビジネスモデルは、いくつかの副作用をもたらします。

官庁や公益法人向けの「横並び調達」スタイルのビジネスをすると、どうしてもコスト(コスト)に適度な利益率を上乗せしたものを対価として請求する、労働集約型ビジネスモデルにならざるを得ません。

ソフトウェアの開発スタイルにはさまざまなものがありますが、ITゼネコンビジネスモデルのもとで唯一可能なのは、プライムベンダーが顧客の要求を聞き出し、そこから仕様書を起こして下請けに投げるという、「ウォーターフォール型」の開発スタイルのみ。この型にもそれなりの利点があるものの、やたらと人手と時間がかかってしまいます。

このような性格を持つ日本のIT企業が、海外で通用するわけがないのは当然です。また、この影響が家電などの産業にまで影響を及ぼしました。

ITゼネコンにソフトウェアの開発を外注していたり、内製でありながらウォーターフォール型の労働集約型ビジネスモデルで作る日本のメーカーは、コスト・スピードの両面で海外メーカーに敵わず、iPhoneのような尖った製品も作れません。

ITゼネコン数社を頂点に置いたピラミッド型の日本のIT業界では、アメリカと比べベンチャー企業の立ち上げが難しくなります。ゲームやアプリを作るなら可能ですが、ビジネス向けのソフトウェアを売ろうとすると、ITゼネコン抜きではビジネスができない。結果として、多くのベンチャー企業が労働集約型ビジネスの波に飲み込まれてしまうのです。

そして、もっとも致命的なのは日米におけるソフトウェアエンジニアの扱いの差です。メジャーリーガーのように大切に扱われるアメリカのソフトウェアエンジニアと違い、日本のIT業界のソフトウェアエンジニアは「新3K(キツい・厳しい・帰れない)」などと揶揄されるくらい厳しい労働環境に置かれているのが現状です。

そして、それに拍車をかけているのが、エンジニアの派遣制度です。案件の規模に合わせ、柔軟に人をアサインできるようにと作られたシステムではあるものの、このシステムがさらにソフトウェアエンジニアの地位を低下させているのです。

これは、アスキー時代やマイクロソフト時代には気づかなかったことでした。「なぜ日本のソフトウェア会社はアメリカに敵わないのだろう」と思って調べていくうちにわかってきたことです。こうやって深堀りしていくと、日本がアメリカに敵わない理由、それはエンジニアの技術力や理科系うんぬんの話ではなくなってきます。社会構造や政治の話が複雑に絡んでいるからです。

典型的な理科系だった私は、それまで社会情勢や歴史にあまり興味を持っていませんでした。しかし、原因を調べていくと、歴史だったり、社会の仕組みをあらためて知ることができましたし、社会や歴史、経済などの面白さにも気づいたのです。気になって調べてみると、知らなかった情報がどんどん出てきて、結果的に非常に良いインプットとなりました。

当初の私のブログは、私がもともと興味のあったパソコンやテック系の話題が中心でした。しかし、こういったことをきっかけに、どちらかというと文科系的なこと、つまり歴史や政治への興味が湧くきっかけにもなりました。書くため(アウトプットするため)に調べていったら、いろんな面白いことがわかって、また新しい分野へ興味が広がっていったというわけです。

また、自分ではわかっているつもりでも、実際にアウトプットしてみると「意外とわかっていなかったな」と思う部分がけっこうありました。

特に、書くというアウトプットは、自分が理解していないとうまくいきません。仕事で使う知識であればさらっと理解して終わっていたものが、ブログのために書くとなると、もう一度しっかり読み返さないといけない、といった状況がけっこうあるのです。

文章というものは、文字数制限さえなければいくらでも説明できるものですが、これが短く書くとなると、過不足なく伝えるには、やはり自分がきちんと理解していることが大切になってきます。

その点、アウトプットを続けていけば、何を省いていいかいけないかを、きちんと認識しないといけないため、そこで「課題の本質は何か」ということを抜き出していく技術も培われていくのです。

この話には続きがあります。

「なぜ、日本のソフトウェア会社はアメリカに敵わないのか」という話をブログで書いたところ、コメント欄で読者同士の激しい議論が起こりました。いうなれば、「ポジティブな炎上」です。中には、実際にITゼネコンに勤めるエンジニアの方からのコメントもあり、いくら調べてもネット上には載っていないであろう内情まで知ることができました。また、他の読者から、私のコメントに対する補足や、逆にツッコミを入れてくれる方もいて、結果的に新たな気づきも得ることができました。

ネット上で書いてアウトプットする際には、「100%誤りのない状態に仕上げないとツッコまれたり、炎上したりする」というイメージがあるかもしれません。しかし、「仮説」の状態でアウトプットしても何ら問題ないのです。

きちんと「正しいかどうかはまだわかりませんが」といったエクスキューズを入れておけば、読者とのコミュニケーションによって、私の例のように、仮説を結論に昇華させることも可能になってきます。

ここまでお話ししたことは、今のようにSNS全盛になる以前のことです。現在であれば、もっと活発に議論が進むはずです。

仮説というアウトプットでも、実は仮説をブラッシュアップしたり、結論に導いてくれるフィードバックが返ってくるときがある。そんなお話でした。

 


「好きなこと」をアウトプットすることが最強である理由

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉あなたにとっての「イースト菌」は何か(61ページ)

好きなことを話すと、そこには伝えることに欠かせない「熱」が加わります。

これは、私の義父、つまり妻のお父さんから聞いた話です。

お義父さんはパン職人です。パンづくりにはイースト菌が欠かせませんが、彼がイースト菌の話を始めたら、もう止まりません。

発酵には適した温度があり、温度によってパンの焼き上がりがまったく違ってくる。何度で発酵させるのが適していて、そのときのイースト菌のえさは何がいいかなどなど……。イースト菌は生き物ですから、発酵させるときの容器によっても、出来上がりに影響を与えるようなのです。

彼いわく「イースト菌は鉄を嫌う」とのこと。科学的な根拠もあるようで、たしかに鉄の容器で作ると味が悪くなるらしいのです。イースト菌は本当に鉄自体が嫌いなのかもしれないし、もしくは鉄の容器に付着するほかの雑菌が嫌いなのかもしれませんが、職人の肌感覚で「鉄の容器でイースト菌を発酵させてはいけない」ということを知っているのです。

こんな話を、目を輝かせながら、これまた嬉しそうに話してくれるのです。この話を聞いていて、私はとても興味を引かれました。私自身、パンは食べますが、イースト菌までは興味がおよびません。そんな私でも、イースト菌の話を聞いて「ああ、面白いな」と思ったのです。

 

彼とは普通に雑談していただけですし、彼はパン作りのプロであっても、しゃべりのプロではありません。ですが、好きなことに熱中している人の話は面白く、聞いている人をぐんぐん引き込む。実際に、私の心を動かしたのです。

 

「自分の好きなことをアウトプットすべきだ」と聞くと、ハードルが高いと感じるかもしれません。たとえば、先ほどの私の話を聞くと、高度な専門性があったり、お金を取れるレベルでないといけないと思うかもしれません。しかし、そんなことはないのです。お義父さんはパン職人ですが、趣味でパンづくりにハマっている人が同じ話をしても、同じ結果になったはずです。

そう。今の時代、パンづくりのなかでも「イースト菌」という特定の要素一つに興味を持ってくれる人がいるのです。そして、今は何より「読者に発掘されやすい時代」です。

独自のパンの作り方や、たとえば、「5分でできるパン作り」について書いたツイートが拡散されて、数万リツイートされることだって十分に考えられます。それを続けていれば「なんか、パン好きの面白い人がいるな」と読者もついてくる時代です。そのうち、パン情報をメルマガで発信したり、 リアルでパン焼き教室を開催したりすることも可能になってくるのです。

 

そもそも、ブログとは自分が好きなことを書くスペースであり、知見が求められる、いわゆるジャーナリズムとは目的が違います。自分が熱くなれるもの・ことについてを思いきり、自分をさらけ出して書いてしまって問題ありません。

 

似たようなコンテンツの作り方として非常にうまいと感じるのが、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」です。

番組では、一般的には名の知られていない、いわゆる職人的な仕事に携わる人がフィーチャーされます。たとえば、チョコレート職人なら、多くの人が気にもしていないカカオの種類に対し、異常なまでの愛情を注いでいます。そんな姿を上手に映し出し、見る者を画面に釘づけにする。チャンネルをザッピングしていて、思わず手を止めてしまい、結局最後まで番組を観てしまったり、番組を通して、ふだんは興味もなかったはずの、ハチミツ作りや土壁の塗り方に興味を持ち、ネット検索から本まで買ってしまった、という経験はみなさんにもあると思います。

 

この番組作りはそれこそプロが行っていますが、ブログなどを書くときには意識してみるといいでしょう。

自分が「プロフェッショナル」で特集されると思って、自分の好きなことをこだわりを持ってアウトプットしていく。すると「自分の好きなものに価値なんてあるのか」と思っていた人でも、勇気が出てくるはずです。

 

この「好きなことを見つける」というのは、単純なテーマ選びではなく、アウトプットする本当の意義でもあります。

次項では、文章術やテーマ選びという次元ではなく、アウトプットの根幹、「あなたがなぜ書くか、なぜアウトプットするのか」の意義についてお話ししたいと思います。

 

◉あなたにも必ず「永遠」のキャッチコピーがある(69ページ)

私が気に入っていて、ブログにも使っているキャッチフレーズに「永遠のパソコン少年」があります。

当初は趣味で始めたプログラミングですが、マイクロソフトでウィンドウズOSの開発などの大きなプロジェクトに携わったり、今では自動運転に関わるソフトウェアを開発したりと、場所や規模は変わっても、心の中ではパソコンやプログラミングの素晴らしさに心底感動した少年時代と、何ら変わっていません。

仮に現在の仕事がすべてなくなっても、プログラミングは続けていくでしょう。頼まれなくても、アプリなどの開発を行っているはずです。

「永遠のパソコン少年」と名乗っている私ですが、以前、とあるインタビューを見て、強烈な共感を覚えました。それが元ザ・ブルーハーツのボーカル、甲本ヒロトさんのコメントです。彼はこのように話していました。

 

「バンドにゴールなんてないよ。ゴールはバンドを組んだときにもう達成してるんだ。中学生が音楽がやりたくて教室のすみっこでホウキをギターにして弾くでしょ。あれがロックの全部なんだよね。もうあそこで完成してんだよ。

もうこうなってくると、趣味だけやってる隠居なんだよな。……それがもう30代くらいから、我々はリタイア組なんだよ。もう、引退はないんですよ。死ぬまでやるしかない」

 

言わずと知れた日本のロックスターであり、数々の名曲を世に送り出してきた甲本さんですが、どれだけ有名になっても、「永遠のロック少年」のままなのです。

 

私も、高校生のときにプログラミングに出合って衝撃を受けましたが、プログラムを書くことで世界を変えよう、などという夢や野望めいたものは一切なく、ただ純粋にプログラムを書くことそのものが楽しくて、一生懸命に勉強して、プログラミングに夢中になっていただけです。

実際、私がマイクロソフトを辞めた大きな理由の一つも、「プログラミングを続けたいから」でした。マイクロソフトという会社が大きくなるうちに私にもマネジメント的な業務が増えていき、「このままだと、近いうちにプログラムを書かせてもらえなくなる」と思ったからです。

その後、いくつも会社を立ち上げたり、オープンソースのプロジェクトを立ち上げているのも、結局はプログラムを書くのが楽しいし、自分の思い通りのプログラムを組みたいし、何よりプログラムを書いている自分が好きだからなのだと思います。

私は今年58歳になりますが、初めてパソコンのプログラミングの楽しみを知った高校時代と、本質は40年以上変わっていません。プログラミングをすることで地位やお金を得るというのは、結果としてついてきたものの、別にそれがゴールではないからです。

 

ザ・ブルーハーツは、1995年に惜しまれながら解散しました。ところが、甲本ヒロトさんは同じくザ・ブルーハーツのギターを担当していた真島昌利さんとともに、ザ・ハイロウズを結成。2005年に活動休止してしまった後は、二人が中心となり、ザ・クロマニヨンズとして現在も精力的に活動を続けています。

相棒であり、これまた永遠のロック少年である真島さんとともに、今でもバンド活動を続けているのです。私は彼らの生きざまに心から共感しますし、とても好きです。「そうか、俺の人生はロックだったのか」と思いながら、ザ・ブルーハーツの曲を聞くとまた格別なのです。人生100年時代、好きなことをやらずに生きるには長すぎます。あなたもぜひ、子どものように夢中になれることを見つけてください。それはAIにはできないことです。 

 


あなたの価値をAIより高めるたったひとつの方法

9月22日発売の「結局、人生はアウトプットで決まる 自分の価値を最大化する武器としての勉強術」からの引用です。

◉アウトプットの継続が、あなたをブランドにする(18ページ)

「中島さんのように名前が知られるようになると、得することがいっぱいあると思いますが、特に有名になって良かったと思うことはなんですか?」と聞かれることがあります。

これはとても良い質問だと思ったので、前項でも触れた〝パーソナルブランディング〟という観点から考察してみたいと思います。

 

パーソナルブランディング(もしくは、パーソナルマーケティング)とは、通常のマーケティングのように会社や商品を知ってもらうことではなく、個人の名前を知ってもらうことです。それも単に名前を知ってもらうだけではなく、その人の経験や経歴を反映した上で、多くの人がその人を信頼し、発言に耳を傾けるようになることを意味します。

たとえば、皆さんご存じのルイ・ヴィトンが、「丈夫で長持ち」というブランドイメージと強く結びついているように、テスラ社CEOのイーロン・マスクは、「不可能なことを可能にしてしまう偉大な起業家」というブランドと強く結びついています。

イーロン・マスクが経営するテスラ社ですが、現在の時点で大赤字を垂れ流しているにも関わらず、株高を維持し、資金調達し続けることができているのも、彼のブランド力が重要な役割を果たしているからなのです。もしもイーロン・マスクが無名の人物だったとしたら、まったく同じ行動や発言をしたとしても、今のテスラは存在しないでしょう。

アップルのiPhoneがあれほどの成功を収めたのも、「スティーブ・ジョブズ」というブランドが重要な役割を果たしていたことを見逃してはいけません。ジョブズの熱狂的なファンが数多くいたからこそ、アップルはiPhoneのビジネスを一気に軌道に乗せ、他社が簡単には追いつけないだけのシェアを握ることができたのです。

これは、カリスマ性を持つリーダーのいない、ソニーやサムソンにはできない芸当です。

 

日本の企業の中にも、パーソナルブランディングを上手に使っている企業があります。それが任天堂で、「スーパーマリオ」や「ゼルダの伝説」などの名作を手がけた宮本茂さんを「スーパークリエーター」としてブランディングし、彼の熱狂的なファンを世界中に何百万人も作ることに成功したのです。

そういう意味では、ソニーも世界を席巻した「ウォークマン」の生みの親は大賀典雄さんだったし、現在も世界中で愛される「プレイステーション」の生みの親は久夛良木健さんです。彼らの名前は世界でも知られているので、その頃までのソニーは、パーソナルブランディングをうまく活用できていたと言えるでしょう。しかし、技術畑の人間ではない出井伸之さんがCEOになってからというもの、製品名に作り手の個人名が紐づくことはなくなってしまいました。

 

パーソナルブランディングには、もちろん実績が必須ですが、だからといって、どんなに大きな仕事をしたとしても、その人の名前が自動的に有名になるとは限りません。

典型的な例が、トヨタのレクサスです。高級車ブランドとしては素晴らしい地位を占めています。アメリカでもそのブランドは広く認知されていますが、一方で、「レクサスの生みの親」については、まったくと言っていいほど知られていません。

「レクサスはチーム力の賜物だ」と反論する人もいるでしょうが、それはiPhoneも同じです。決してジョブズ一人で作ったわけではないのです。しかし、アップルはジョブズというカリスマ性を持つリーダーを巧みに利用し、あたかもジョブズがiPhoneの生みの親であるかのような演出をすることにより、「アップル」「iPhone」「スティーブ・ジョブズ」という3つのブランド力を同時に高め、iPhoneの大成功に結びつけたのです。

パーソナルブランディングが素晴らしいのは、コーポレート・ブランディング(企業ブランディング)よりも広告の費用対効果が高いことにあります。「アップル」「iPhone」「スティーブ・ジョブズ」という3つのブランド力が最高潮に高まっていたスティーブ・ジョブズの時代のアップルは、マイクロソフトに比べ、はるかに低いマーケティング予算で何倍もの効果をあげていたことが知られています。

 

せっかく良い仕事をしていても、誰にも知られていない人(いわゆる「地上の星」)はたくさんいます。いくら実績は素晴らしくても、残念ながら彼らのパーソナルブランドが高いとは言えません。

何が違いを分けるのかというと、要は大衆に向けてアウトプットすることなのです。言い方を変えれば、アウトプットしていないとどれだけいいものを作っても、やがては埋もれてしまうのです。私は、たまたま良いタイミングでブログを書いていたために、知名度が上がりました。「はてなブックマークをできるだけ多く集める」という私だけの遊びが、期せずして私のパーソナルブランドを上げるという意味で効果的だったのです。

タイミング良くウィンドウズ95のソフトウェアアーキテクトというポジションにつくことができた上に、アメリカでも起業経験があるため、「世界で活躍するソフトウェア・エンジニア」というイメージが強く結びつくことになりました。

そのおかげで、さまざまなカンファレンスにスピーカーとして招待されるし、実際のビジネスの場でも、私が顔を見せるだけで商談がうまく進むことがよくあります。有料メルマガに数多くの読者を集めることができたのも、私の名前にブランド力があったからと言えるでしょう。マイクロソフトを退社してからしばらくして設立した「UIEvolution」という会社は、一度スクウェア・エニックスに買収され、その後、MBO(Management Buyout)することになったのですが、この際の資金集めにも、私自身のブランド力が多いに役立ちました。

 

こうやって、私は業界でも名の通る存在となりました。「マイクロソフトでウィンドウズ95を作ったから有名」と思われていますが、実はそうではありません。私はウィンドウズ95を作った実績があるとともに、ブログで発信をしていたからこそ、今の立場を手に入れることができているのです。

一方で、ソニーの大賀さん率いるウォークマンチームのもとで奮闘していたエンジニアは、何人もいるはずです。彼らにも十分な実績がありますが、そのほとんどが世間から認知されていません。もしあの時代にインターネットという手軽なツールが存在していて、私のようにアウトプットしていたら、彼らも一定の知名度を得ていたはずです。講演の依頼が来たり、他社からヘッドハンティングを受けていたかもしれません。

彼らは手軽なツールがなかったために、アウトプットしたくてもできなかったとも言えます。その点、私は恵まれていました。プロジェクトに関わるのと機を同じくして、「アウトプットの時代」が到来したからです。それは、あなたも同じ。いや、私がブログを始めた頃以上にアウトプットしやすくなっています。つまり、昔は地上の星にならざるをえなかった裏方のスタッフたちも、夜空でキラキラと輝ける時代になったということ。

しかし、自分から発信しないと誰も気づいてくれません。アウトプットしやすくなったのは、他の周りも同じですから、積極的に主張していかないと埋もれてしまいます。

知る人ぞ知る地上の星になるのか、夜空で輝く星になるのか。その明暗を分けるのはアウトプットの有無なのです。

ソフトウェア開発もそうですが、それに加えてアウトプットすることによって、身の回りの状況が変化し、たくさんの方々と知り合えることができたのは、とてもありがたいことでした。ブログを通じてたくさんのエンジニアとも縁ができましたし、新たなビジネスチャンスにもつながりました。この本を書いているのもそうです。

その意味では、ブログやYouTubeを通じてコンスタントに「発信し続ける」ことは、今の時代、ものすごく重要だと思います。発信することによって学ぶこともたくさんあるし、長期に渡って発信し続けることがボディブローのように効き、あなたのパーソナルブランディングはじわじわと上がっていくのです。

 

別にブログでも、ツイッターでも、インスタグラムでもいいのですが、アウトプットしてみることで、ある分野で権威を持てるぐらいの位置を目指してみましょう。別にその分野でナンバーワンになる必要はありません。何も、トップだけがパーソナルブランドが高いわけではないからです。

また、アウトプットをしていくそのプロセス自体がものすごく勉強になり、自分の可能性を広げてくれます。アウトプットをすることで、自分自身が成長していくのです。このことに気がついていない人が非常に多く、いつも私はもったいないと思っています。

 

◉ブログをやるなら、実名をさらせ(26ページ)

発信でいうと、日本はことあるごとにムーブメントが起きています。たとえば、ブログブームやミクシィブーム、携帯小説ブーム、ツイッターのハッシュタグ祭りなどもこれに当てはまるでしょう。「控えめ」などと言われる日本人ですが、何かきっかけがあれば熱狂的に盛り上がる日本人の姿を見ていると、「あながちアウトプットが嫌いではないし、むしろ好きなのではないか」と思えるかもしれません。

誰にでも承認欲求がありますから、決して不思議ではないのですが、それらの多くは、本当のアウトプットとは言えません。なぜなら、とても刹那的で浅いアウトプットでしかなく、「本質を理解する」という意味での勉強にもならないし、パーソナルブランディングの確立にもつながらないからです。

そこで、私がおすすめするのが実名ブログです。実名でアウトプットするからこそ、「ちゃんとしたことを書かなければ」というプレッシャーを自分にかけることができるし、中島聡なら中島聡の、あなたならあなたのパーソナルブランドの確立につながるのです。

日本では匿名のブログが多く存在していますが、私が住むアメリカでは大半が実名です。アメリカには、「偽名でなければ書けないことは、読むに値しない」と受け止められたり、「正々堂々とした意見や主張でないと受け入れられない」といった風潮もあります。

また、アメリカの新聞の投書欄を見ても、みんな実名を明かしています。日本なら「50代男性」といった表記が一般的でしょう。また、日本ではラジオ番組のリクエストコーナーでも、多くの人がラジオネームを使っている印象を受けます。アメリカ人が聞いたら、「なんで曲のリクエストをするのに自分の名前を隠さなきゃいけないんだ?」と思うはずです。

ここで、日本とアメリカの優劣をつけたいわけではありません。私がおすすめするのは断然実名。匿名が悪いとはいいませんが、たとえば私のもとに寄せられる誹謗中傷などは匿名のものばかり。果たして彼らは、実名で同じことを言えるでしょうか。こうやって実名にすることで自分の発言に責任が生まれるのです。

実名を公表すれば、発信する内容も下手なことを書けません。大して調べもせずに闇雲に誰かを批判するようなことも、とたんに減るでしょう。下手なことは書けませんから、アウトプットにも深みが増していきます。最近は匿名の人気ブロガーが本を出版したりセミナーを開いて人気を博すこともあるようですが、やはり実名のほうがパーソナルブランドは上がりやすいでしょう。