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どっちの料理ショー、「天むす」対「松茸おこわ」

Bento

 私の使うノースウェストの8便は、午後の3時半出発なので、新宿11:42発の成田エクスプレスがちょうど良い。すると、どうしても昼食の時間と重なるので、早めの昼食をすませて乗るか、弁当を買って座席で食べることになる(着いてから食べる案には私の胃が賛成してくれない)。

 昔は、列車の中で食べる弁当と言えば、かならず「駅弁」であったが、デパチカの「中食(なかしょく)」が著しい進化を遂げた今は、できればデパチカで買いたい。デパートが近くにある駅から乗る場合には、少し遠回りになろうと、スーツケースを抱えていようと、デパチカで買うのが習慣になってしまった。特に、新宿駅の西口には小田急デパートと京王デパートの両方が駅に隣接してあるのがすばらしい。京王デパートの方が各種弁当が一つのところにまとまって売っているので買いやすいが、小田急には「とんかつまい泉」がある。どちらもお勧めである。

 今日は、京王デパートで買うことにしたのだが、売り場に行って、思わず悩んでしまった。米八の「松茸おこわ」弁当が最初に目に入ったのだが、そのとなりの「すえひろ天むす」も捨てがたいのだ。

 さあ、どっち!?

 気分はすっかり「どっちの料理ショー」である。一瞬の躊躇の後、良い解決策を思いついた。おかずの入った弁当はやめて、バラで「一口天むす五個」と「松茸おこわ130グラム」を買うことにしたのだ。デパチカの「中食」売り場ならではの裏技である。駅弁屋ではこうはできない。

 成田エクスプレスに乗り込むと、さっそく席について、「松茸おこわ」をおかずに「天むす」を食べ始めた(逆かな?)。最高である。「いちおう弁当の体裁を整えるために付け足しただけの冷え切った鮭の塩焼き」、なんかをおかずにするよりは、百倍いい。ちなみに、この手の「自分なりのわがままな食べ方」が出来るようになったのはここ2・3年のことである。「四十にして惑わず」とはこのことであろうか。


「両親の性別」記入欄

Commonapp

 日本に住む高校3年生の息子が、米国の大学を受けるために願書を書き始めた。学校ごとに別々の試験と願書の書式がある日本と違い、「SAT(Standard Achievement Tests)」という全国共通テストと、「Common Application」という共通書式の願書により、大幅な効率化が進んでいる。そのおかげで、日本からでも(現地に行かずに)受験が可能なのである。広い国土を抱える米国ならではの工夫なのだろう。

 この Common Application に興味深い点があることに息子が気が付いた。両親の「性別(gender)」をそれぞれ記述する欄があるのだ。日本なら当然、父親・母親とすべきところを親1・親2(Parent 1/Parent 2)とし、それぞれに名前・性別・職業・学歴などを記述するのである。同性同士の結婚(Gay Marriage)を認めるカリフォルニアのような州があるために、それに配慮してのことである。

 さらに、「両親の関係」の欄に、「結婚している(Married)」、「別居している(separated)」、「離婚した(divorced)」、「未婚(never married)」、「その他(others)」という選択枝があるのだが、最初の4つが全てのケースを網羅しており、「その他」とはどんなケースなのかがどうも理解できない、と息子が言う。確かに、「同性なので結婚したいが州の法律で結婚させてもらえないので、息子を大学に入れたのちカリフォルニアに移住して入籍する予定」、「前妻の連れ子を引き取ったが、その妻が他界したのち再婚した」などの特殊なケースでも必ず最初の4つのいずれかに当てはまるように思える。

 自分の受験のための大切な願書を書いている最中なのに、そんなことが気になってしまう息子は、顔だけでなく脳みその作りまで私に似ているようだ。 


さんま焼けたか、焼けたかさんま

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 この時期に日本に来て一番の楽しみは、やはり食べ物である。先日、たまたま新宿パークタワーの「茅ヶ崎 海ぶね(かぶね)」の近くを通りかかったので、少し早かったが、昼飯にすることにした。ちょうど開店したばかりらしく、私が最初の客であった。奥のカウンターに向かって進むと、元気そうな秋刀魚(さんま)を焼いているのが見え(写真)、その瞬間に何を注文するかが決まった。煙を出して焼かれる秋刀魚の目の前の椅子に座ると、ウェイトレスに「秋刀魚(定食)、お願いします」と言う。「少し時間がかかりますが、よろしいでしょうか?」と確認するウェイトレスは、私が何でわざわざその席に座ったか理解できていないようだ。

 写真を見ても分かると思うが、この店では昼時の焼き魚は客から注文を受けてから焼くのではなく、前もって焼いておくようだ。客の回転率が売り上げに大きく影響する昼時は仕方がないのだろう。開店と同時に入った私だけが焼きたての秋刀魚を食べられると思うと、妙に特をした気持ちになる。

 そんなことを考えながら、秋刀魚の焼けるのを待っていると、あっという間に秋刀魚は焼け、期待したとおりアツアツの秋刀魚が私の目の前に運ばれてくる。まるで殿様になった気分だ。醤油をかけた大根おろしと秋刀魚を同時に口に含み、その幸せが口いっぱいに広がると同時にご飯を口に運ぶ。至福の時である。わずか800円でこの幸せが買える日本の秋は本当にすばらしいと思う。

 ちなみに、私がどうしても高級フランス料理や会席料理がどうも好きになれない理由が、この「至福の時」の欠如である。その「至福の時」の必要条件は、「最初の一口であること」、「ご飯がススむおかずであること」、「ご飯をほぼ同時に口に含むこと」の三つであり、このどれが欠けてもだめである。そもそもご飯を一緒に食べないフランス料理は失格だし、最初からご飯が出てこない会席料理も失格である。天ぷら屋や焼肉屋で、最初からご飯を持ってきてくれない店が嫌いなのも同じ理由である。


ディズニーランド物語

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 ディズニー、ソニー、アップルの3社は、昔から「どうも気になる会社」の代表である。新聞記事があると丁寧に読んでしまうし、ビジネス書を見つけるとつい買ってしまう。消費者の心をつかむブランド・マーケティング戦略に関して、この3社に学ぶ点は沢山あるからである。この本「ディズニーランド物語(有馬哲夫著 日経ビジネス人文庫)」も、そんな感じでつい買ってしまった本である。

 ディズニー・コーポレーションのテーマパーク・ビジネスに焦点を絞って書かれたビジネス書であるが、私が前から抱えていた、「ディズニー・ワールドとディズニー・ランドはなんであんなに違うのか」とか、「東京ディズニーランドの経営母体のオリエンタルランドってなんだ」などの疑問に答えを与えてくれただけでも読む価値のある本であった。

 私自身もディズニー・ワールドに家族を連れていったことがあるが、まずその圧倒的な規模に驚かされたし、なんでエプコット・センターなんてものがあるのか全く理解できなかった(結局行かなかった)。本書によると、ディズニー・ワールドは、ウォルト・ディズニー自身が、実験的な未来都市を作ろうとしながら完成前に他界してしまったために、中途半端な形になってしまっているらしい。

 一番驚かされたのは、東京ディズニーランドの経営母体であるオリエンタルランドにディズニー・コーポレーション自身は一銭も出資していないという事実である。一切リスクを負わずに、売り上げの(利益のではない点に注意)10%を持っていくという一方的にディズニーに有利な条件で東京ディズニーランドは作られたそうだ。そんな不利な条件下で、必要な資金を集め、千葉県や漁業関係者との交渉を続けて立派に東京ディズニーランドを成功させたオリエンタルランドの関係者の人たちの苦労は並々ならぬものだったに違いない。

 その東京ディズニーランドの成功を見て、リスクを全く負わずに莫大な利益を得たにも関わらず、「オリエンタルランドに投資をしておけば、もっと儲かったもしれない」と余計な色気を出し、ユーロ・ディズニーでは逆にリスクを負い過ぎて大やけどを負ってしまったというストーリーはなんとも皮肉である。まるでイソップの童話の「川面に移った自分に向かって吼えて、くわえていた肉を落としてしまう犬」である。


宮崎アニメを飼い殺しにしている米国ディズニー

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 この本「宮崎アニメの暗号(青井汎著 新潮新書)」も、先の「人間の証明」と同じく、先月成田空港の書店で買った。宮崎アニメは、「少年コナン」から「千と千尋の神隠し」まで全て見ている私なので、つい題名に引かれて買ってしまった。今日まで読む機会がなく、たった今、「シアトル→東京便」の中で一気に読んだ。

 「どうせ『宮崎おたく』がうんちくを書いているだけだろう」とあまり期待せずに読み始めたのだが、結構真面目に勉強して書いてあり、「こんな解釈のしかたもあったのか」と思わせる箇所が幾つもある、なかなかの良書であった。宮崎ファンにはお勧めの一冊である。

 宮崎アニメのすごいところは、あっという間に視聴者をその世界に引き込んでしまう「世界観」の作りこみの巧みさだと、私は常々思ってきた。著者は、そのバックグラウンドに宮沢賢治の作品への思いだとか、一神教以前の古代宗教への崇拝とかが色濃く出ており、だからこそ宮崎駿の「世界観」に見る人の心を揺さぶるほどの力があると主張しているのである。著者の言うこと全てに納得が出来たわけではないが、これを読んでもう一度ゆっくりと宮崎アニメを見直したいと思ったし、宮沢賢治の作品も少し読んでみようかと思った。

 ちなみに、常々思って来たことだが、宮崎の作品の全米での独占配給権を持ちながら、ちゃんとロードショーもしないで飼い殺しにしている米国ディズニーが私には許せない。「千と千尋…」がアカデミー賞を受賞したときに、私の周りのアメリカ人ですら「どうして上映してくれないんだろう、見に行きたいのに」と言っていた。日本の人たちには信じられないかもしれないが、全米ロードショーをしなかったのだ。完全に足元を見られてしまっている。

 多分、ディズニーとどうしようもない「契約」を結んでしまったのだろうが(前に「おまかせ文化論」で述べたように、「ディズニーにまかせておけば安心だ」などと「おまかせ契約」を結んでしまったに違いない)、そんな契約はさっさと解約して別の配給会社を探すべきだ。例えば「全ての作品において、全米少なくとも100の映画館で最低でも2週間は上映し、広告・宣伝費には200万ドル以上使い、売り上げが1000万ドルを超えなかった場合は、こちらから一方的に契約を破棄してよい」ぐらいの条件を複数の配給会社に突きつけて、一番良い条件を提示して来たところと契約する、ぐらいのことをしなければだめだ。ボランティアでも良いから、契約交渉の席に立ち会って、誇るべき日本のアニメ文化の頂点の作品を世界の人々に広めるのに協力したいぐらいだ。


「人間の証明」 特別出演・友情出演

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 ビデオ・シティ(近所の日本人向けのビデオ・レンタル屋)で、テレビドラマ「人間の証明」のビデオを6本借りてきて、週末に一気に見た。原作を読んでから見たので、意図的に原作と変えている部分などが楽しめたが、「小説の方が楽しめた」というのが正直な気持ちである。ベストセラーものがテレビになったり映画になることはよくあるが、ほとんどの場合小説の方が出来が良く、映像を先に見てしまって「もったいないことをした」と思うことが良くある。このケースも、危うくテレビを先に見るところであった。成田空港の本屋でたまたま文庫本を見つけたのが幸いした。

 ちなみに、出演者の名前を見ていて気が付いたことが一つある。風間杜夫が「特別出演」で、緒方拳が「友情出演」なのである。

 今が旬で視聴率も期待できる竹野内豊を主役に置き、旬は過ぎたとは言え、まだ芸能界ではずっと格が上な風間杜夫と緒方拳に脇を固めてもらう、という配役は確かにうなずける。しかし、そういった格が上の人に必ず「特別出演」とか「友情出演」などの「形だけの礼儀」を払う風習は、どうも好きになれない。特に、「友情出演」というのは、「監督と親しい有名な俳優が、ほとんどノーギャラで本来なら絶対にやらないような『チョイ役』で出演することにより、スパイスを効かす」という意味だったはずだ。しかし、この例では、緒方拳は捜査本部の責任者で竹之内の上司というとても重要な役回りで、せりふも多く、本来の「友情出演」の定義からは大きくはずれている役どころであった。

 私の想像するに、まず風間杜夫の「特別出演」が決まり、風間杜夫よりさらに格が上の緒方拳の出演交渉の際に、同格の「特別出演」では緒方拳に申し訳ないという配慮のもとに、緒方兼は「友情出演」という線に収まったのではないかと思う。

 今度からドラマを見るときは、「特別出演」や「友情出演」の「冠」をもらう俳優は誰かを注意して見てみようと思う。そこに、「主人公より格が上の俳優に脇役での出演交渉をしなければならないプロデューサーの苦労」というもう一つのドラマが見て取れるはずだ。


「おまかせ」文化論

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 最近、日本とのやりとりが増えたので、専任の通訳の人を雇ってメールや掲示板でのやり取りを翻訳してもらっている。その通訳の人が、「どうしても適切な英語の訳が浮かばない」と困ってしまったのが、「おまかせ」という日本語である。

 レストランが旬のお勧め料理を出してくれる「おまかせコース」、ユーザーの見たいだろう番組を予想して録画してくれる「おまかせ録画機能」など、「おまかせ」という言葉は日常良く使う言葉で、決して難しい言葉ではない。では、どうしてプロの通訳を持ってしても「適切な英語の訳が浮かばない」と言わしめてしまうのか考えてみた。

 一つは、日本語特有の「自明な主語は言わなくとも良い(もしくは言わない方が良い)」という特徴である。上の二つの例では、「シェフ」と「機械」にまかせているわけだが、そんな自明なことを言わないのが日本語である。しかし、英語だと "up to ○○" だとか、"○○'s choice" などと明示的にまかせる相手を指定しないと文法的に正しくないという欠点がある。そのため、レストランの「おまかせコース」なら、"chef's choice" と翻訳できるのだが、「おまかせ」だけだと翻訳不能なのである。

 もう一つは、日本独特の「あいまいさがあっても相手を信頼する」文化である。アメリカのレストランでは、"Today's special"、"Chef's choice" などと、一見「おまかせ」に相当するものがあるが、ほとんどの場合、それが実際には何があるか(差込の)メニューに書いてあるか、ウェイトレスが説明してくれる。日本の「おまかせ」のように、何が出てくるか分からないまま注文するアメリカ人はほとんどいないと言っていい。色々な人種やバックグラウンドの人たちが集まってできたアメリカでは、原則としては相手を信頼せずに全てを契約書ではっきりさせる、という習慣が日々の生活にまで浸透しているのである。日本人が「おまかせ」を頼む時は、「『おまかせ』って言うぐらいだから旬のおいしいものが出てくるに違いない」と期待に胸を膨らませるものだが、アメリカ人だと「何が出てくるか分からないのに高い金が払えるか」と思うのである。

 日米間のビジネスにおいても、すごく細かな点まで指定してくる米国の企業に併行する日本企業や、「おまかせ」的な契約書を交わしてしまって後で思いっきり足元を見られてしまう日本企業などが沢山いるはずだ。米国の企業と契約を交わすときは「あいまいさ」は禁物である。相手に「おまかせ」してしまうのは、もっての他である。

 ちなみに、「おまかせ」という言葉を聞くと、「プロポーズ大作戦」を思い出してついほくそ笑んでしまうしまうのは私だけだろうか。公開合コンのような形式で番組が進み、見事にカップルが誕生すると、男の子が女の子の指定した場所にキスをするという儀式がある。すぐに「おでこ」とか「ほっぺ」とか言ってしまえばいいのだが、女の子がモジモジしていると、司会者の西川きよしが、「おーまかせ」とはやしたてるのである。そこで女の子が、「おまかせします」というと、男の子は口にキスをするというのが「しきたり」となっていた。私は結構この番組を見ていたが、一人として「口にお願いします」という女の子もいなければ、「おまかせします」と言われて口にキスしなかった男の子もいなかった。この辺も、今になって思えば思いっきり日本人らしい行動である。

 アメリカ暮らしが長いこそからかもしれないが、こんな日本の「おまかせ」文化が妙に良く思える今日このごろである。


北米産マツタケ

Matsutake

 シアトルといえばイチローしか浮かばない日本人が多いと思うが、実はシアトルは「北米産マツタケ」は産地でもある。日本の八百屋さんに並ぶ色の白っぽいマツタケは、シアトル近辺もしくはもう少し北の松林で採れるのだ。いつもこの時期になると、私の一番のお気に入りの日本食レストラン Nishino に行って「マツタケのどびんむし」を楽しむのが恒例であるが、なぜか今年は行く機会がない。日本にばっかり言っているのもあるし、接待すべきお客さんがいいタイミングに来てくれないのである。

 そこで仕方がないので、宇和島屋(近所の日本食スーパー)でマツタケを買ってきて自分で料理をすることにした。できるだけカサが開いておらず(香りが良い)、かつ茎の部分の硬いもの(柔らかいのは虫喰いの証拠)を選んできた。以前、良く選ばずに買ってきたら、半分は虫喰いで食べられなかった経験からである。

 会社の帰りに思いついて買ったので、今日はマツタケご飯にはできない(正確には私の胃袋は待ってはくれない)。そこで半分だけ使って、とりあえずマツタケのお吸い物と網焼きを作って食べることにした。網で焼いているときの香りは最高で、それだけで半分満足してしまう。日本産には負けるが、コスト・パフォーマンスを考えれば北米産も悪くない。丁寧に選んだだけあって、歯ごたえも良いなかなかのマツタケであった。

 これを食べながら日本のドラマを見ていたら、一人暮らしのサラリーマンが家で寂しそうにカップラーメンを食べるシーンがあった。私にとって、あれは「絶対にありえない」風景だ。単身赴任だろうと、どんなに忙しくても、「三度の飯」だけはちゃんと食たべるのが私のモットーだ。「何はなくとも三度の飯」である。


最多安打に続いてノーベル賞

Buck

 イチローの最多安打記録更新の興奮のまだ冷めないシアトルに、もう一つすばらしいニュースが届いた。シアトル出身で、現在もシアトルのフレッド・ハッチソンがん研究センター(Fred Hutchinson Cancer Research Center)で働くリンダ・バック博士(Dr. Linda Buck)がノーベル医学賞を受賞したのだ(正確にはリチャード・アクセル博士と共同受賞)。

 興味深いのは、日本では日本人がノーベル賞を受賞すると「日本人が」受賞した部分をことさら強調して大騒ぎするが、アメリカの場合、「アメリカ人が」という部分はあまり強調されない。珍しくもないからだろう。ところが、それが「シアトルの人が」ということになると、がぜん地元の放送局が張り切りだすのが、すごく田舎っぽくて楽しい。

 ちなみに、受賞は「動物の嗅覚システムの解明」だ。要約するとこんな内容である。

 人間は1万から10万種類もの匂いを嗅ぎ分ける力を持っていることは知られていたが、どうやってそれほど膨大な種類の匂いを嗅ぎ分けることが出来るかは、全く解明されていなかった。そこで、バック博士とアクセル博士は、そこに何らかの匂いの受容体(receptor)のようなものが絡んでいるに違いないと予想し、システマチックな実験を繰り返した。

 その結果、人間には約350種類、マウスには約1000種類の受容体があることを突き止めた。ただし、一つの受容体が一つの匂いを嗅ぎ分けるわけではなく(それでは人間は350種類の匂いしか嗅ぎ分けることができない)、一つの匂いが複数の受容体を刺激し、その信号の組み合わせによって受容体の種類よりも遥かに多くの種類の匂いを嗅ぎ分けることができるのである。

 バック博士は受賞インタビューにおいて、「受容体で匂いを嗅ぎ分ける仕組みは、ちょうどアルファベットの組み合わせのように働きます」と言っている。つまり、受容体それぞれにアルファベットで符号をつけ、受容体 r, o, s, e が反応すれば「バラ」の香りと感じる、というようなものである。

 さらに、バック博士らは、反応した複数の受容体からの信号が、それがちょうど「辞書」のような仕組みを持つ組織で一つの神経細胞へのシグナルにマップされ、それが脳の上層におくられるというところまで解明したそうだ。「ただし、その信号を脳の上層でどう処理しているかはまだ全く解明できていません」というバック博士の言葉は、現代医学において、脳が最後のフロンティアーであることを思い出させてくれる。映画解説者の水野晴夫さんではないが、「科学って本当にすばらしいですね」とつくづく思う。


ポータブル・インフライト・エンターテイメント・システム

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 私がマイクロソフトをやめる一番のきっかけになったビジネス書「イノベーションのジレンマ」は、色々な点で教えてくれる点の多い本であったが、最も印象に残った言葉は、「市場のリーダーが提供しているものと真っ向から競合するものよりも、明らかに劣る部分があり、ニッチなマーケット向けのものに思えるものこそが、市場をひっくり返してしまうような『破壊的な発明』を持つことがある」という部分である。「明らかに劣る」部分があるところがミソで、そこがリーダーにとっての盲点である。

 シアトルPI(ローカル新聞の一つ)の記事で、まさにそんな戦略でインフライト・エンターテイメントの市場に食い込もう押している会社の製品の紹介があったのでここに紹介する。

 作っている会社は、APS Inc. というシアトルの会社(この記事によると Alaskan Air の子会社)で、商品名は digEplayer 5500 といい、一口で言えば、持ち運びの可能なインフライト・エンターテイメント・システムである。バッテリー駆動(8時間)で、映画や音楽などを楽しめるというものである。最初この話を聞いたときは、空港で旅客が独自にレンタルするケースを想定しているのかと思ったが、必ずしもそうではないようだ。実際に狙っているビジネス・モデルは、空港会社が買い上げてスチュワーデス(英語では flight attendant)に離陸後に配らせる(ビジネスクラスは無料、エコノミークラスは有料)というものらしい。

 旅客機に備え付けのシステムと比べて「明らかに劣る」点は、幾つかある。

(1)離陸後に配り、着陸前に回収するという作業が発生する
(2)前もって充電しておかなければならない
(3)落として壊したり、旅客が返却せずに持ち帰ってしまうなどのリスクが発生する

 しかし、

(1)システムを備え付ける必要がないので、どんな機種でも使える
(2)必要に応じてシステムを乗せることにより、総重量を大幅に抑えられる
(3)メンテナンス・コストが大幅に抑えられる
(4)エコノミークラスの乗客にもサービスを提供できる
(5)レンタルすることにより追加収入となる可能性がある

というユニークな利点があり、既存のシステムに大幅な投資をしていない新規参入の航空会社にとっては非常に魅力的なものになっている。

 現在備え付けタイプのシステムでビジネスをしている会社にとっては、

(1)参入障壁がずっと低くなってしまう
(2)システム・インストールで稼げなくなる(一機4000万円程度)

という問題点があり、この市場には非常に出て行きにくい。まさに、ジレンマである。