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PCのコモディティ化

041230_210026 今年の正月から「三日坊主にだけはならないぞ」と宣言して始めたブログだが、何と驚いたことに一年続いてしまった。ときどき間が空くこともあったが、エントリーの数も100を越え、読者も家族・友人から仕事関係の知人・ブログで知り合った人まで広がり、我ながらよくやっていると思う。
 
 妻にはなかなか理解してもらえないが、こうやってブログを書くのも、私のとっては重要な仕事の一環である。95年から始まった「インターネット革命」が人間社会にどんな影響を与えて行くのか、そしてそこでビジネスをするにはどんなことをしていけば良いかを考えるには、常に最先端のものに触れて続ける必要があり、それが今はたまたまブログなのである(とは言え、「FFXIをするのも仕事のうち、と言った辺りから理解できなくなった」、という彼女の言い分ももっともである)。

 ブログなどをしていてつくづく今思うのは、インターネットによるPC(パソコン)のコモディティ化である。PCが個人ユーザーに広がり、インターネットでショッピング・コミュニケーション・ゲームなどさまざまなことが可能になってくるにつれ、PCを触っている時間は長くなるものの、PCの存在感そのものは逆に薄れて来ているのである(ちなみに、こう考えているのは私だけではないことを発見。インプレスの記者の tinao さんのブログにトラックバック)。

 インターネット以前のPCのユーザーは、基本的には皆ヘビー・ユーザーで、主な用途はワープロや表計算などのアプリケーション・ソフトを走らせることにあった。あの時代のユーザーは、常にPCそのものを意識していたし、PCを買ったら最初にすることは「必要なアプリケーション・ソフトを買い揃える」ことであった。そんなヘビー・ユーザーのお父さんが部屋に閉じこもっていると、奥さんは「うちの人は部屋に閉じこもってPCばかりいじっていて…」と言ったものである。

 しかし、インターネットがここまで普及した時代のPCユーザーは、大半がライト・ユーザーであり、PCは「インターネットに接続して何かする」ための道具でしかない。メール、チャット、ブログ、ショッピング、オークション、音楽・映像ダウンロード、オンライン・ゲームなどほとんどの作業がブラウザーを通して可能であり、特殊なアプリケーション・ソフトを走らせる必要はどんどん少なくなっている。PCを買っても、アプリケーション・ソフトを一切購入せずに済ますユーザーが大半である。先の閉じこもりお父さんは、今は「うちの人は部屋に閉じこもってインターネットばかりしていて…」と言われるのである。妻には今年の始めに東芝のノートブックを選んであげたのだが、彼女の使い方を見ていると、(マイクロソフトで Windows を作っていた私が言うのも何だが)マックでも良かったとつくづく思う。どうせWindowsアプリを走らせるわけでもないし、デジカメの写真の取り扱いが楽な分マックで十分である。

 インターネット・バブルの真っ盛りに、色々な会社が「ポストPC」の掛け声とともにさまざまな「インターネット専用端末」を出してことごとく失敗したが、私は今こそが本当のチャンスではないかと思う。その意味で、Linux などよりも完成度の遥かに高いマックはちょうど良いポジションにいると思うのだがどうだろうか。私は、出井さんにも、久多良木さんにも、「ソニーは Windows パソコンを作るのをやめてアップルを買収すべきです」と薦めたのだが中々本気で考えてもらえない(ひそかに考えているのかもしれないが、少なくともその場では同意してもらえなかった)。買収が無理だったらアップルOSをライセンスしてソニーPCのラインナップを一新すべきである。

 外野から無責任に色々言うのと、実際にそんな買収を成功させるのには大きなギャップがあるのだが、私が絶対的な自信を持って言えることが一つある。「アップルのソニーによる買収」がビル・ゲーツにとって最もいやなシナリオであると言うことである。ビル・ゲーツは、iPod/iTune の成功にをかなりうらやましく思っており、そんな大きなオマケの付いたアップルをソニーが買収して、マックをソニーの販売力で売り始めたら、それはマイクロソフトにとってとてつもない脅威である。

 ちなみに、インターネットの普及によりPCがコモディティ化することをいち早く予言したのは、今はなきネットスケープという会社である。95年にナビゲーターというブラウザー・ソフトで真っ向からマイクロソフトに挑戦したネットスケープは、マイクロソフトの強烈な反撃とインターネット・バブルの崩壊により、あっけなく消滅してしまったが、その根底にあるヴィジョンはすばらしいものであった。(私はマイクロソフト内にいながらそのヴィジョンにほれ込んでしまい、それが元で Internet Explorer 3.0 のプロジェクトに関わることになったのだが、その話は別の機会にでゆっくりと書こうかと思う。)

 マイクロソフトが猛反撃によりブラウザーのシェアを勝ち取り、ネットスケープという会社が消滅した10年後の今になってやっと、ネットスケープが予言した「PCのコモディティ化」が具現化するというのは、何とも言えない皮肉である。私の上司で、マイクロソフトのインターネット戦略のトップであったブラッド・シルバーバーグは引退後、「今になって考えてみると Internet Explorer の成功は、(マイクロソフトの旧ビジネスの余計な延命行為になり)かえってマイクロソフトにとって良くなかったのかも知れない」と言っていたが、その言葉の意味が今になってますます現実味を帯びてきた。


IP電話 vs. NTT

041228_184417  短い間とは言え、NTTに一度席を置いた身としては、「IP電話革命」がNTTのビジネスにどんな影響を与えるのか、興味深く見守っている。SkyPe などのパソコン向けのIP電話がすぐにNTTのビジネスを脅かすとは思えないが、ヤフーBBなどが提供するブロードバンド系のIP電話は、普通の電話機をそのまま繋げば使えるようにした点が、大きな脅威である。

 IP電話を提供する側の言い分は、「NTTの提供する電話網は circuit switch という一世代古い技術を使っており、非常に高価な交換機とネットワークを必要とする、それに対して、パケット網で使うルーターは二桁以上安価で、ネットワークもインターネットのバックボーンを利用できる。そのためNTTよりずっと安価にサービスを提供できるのだ」である。それに対して、NTTの言い分は、「今のパケット交換方式では、電話に必要な安定した QoS (Quality of Service)を提供することができない。 NTTは 110番・119番も含めたサービスの安定提供のために多くの投資をしており、『安かろう悪かろう』のIP電話と値段だけ比べられても困る」である。

 どちらの言い分にももっともな部分があり、最終的にはサービスを受ける側のユーザーが、値段の安いIP電話に軍配を上げるか、サービスの質の高いNTTを使い続けるか、で勝負が決まる。NTTとしては、どこまで値段を下げられるか、IP電話側としては、どこまでサービスの質をNTTに近づけられるか、が鍵である。

 そんな戦いを他人ごとのように観戦していた私だが、今回の引越しで当事者として「IP電話にするかNTTにするか」の選択をすることになった。今度入居する新築マンションには、有線ブロードネットワークス(以下「USEN」と省略)の光ファイバーが敷設されており、ブロードバンド・インターネット・サービスはすでに管理費の一部だし、IP電話もわずか月々525円の基本料金で利用できるのだ。昔お世話になったNTTには申し訳ないが、例の電話債券の価値もゼロになることだし、ここは思い切って、IP電話に切り替える決断をした。

 しかし、IP電話の問題点は、申し込みの時点から見え始めた。申し込み用紙の記入のしかたが非常に分かりにくいのだ。そこで、カスタマー・センターに電話をしてみるが、全然つながらない。いつ電話しても、「ただいま込み合っております」というメッセージが流れ、ひたすら待たされるのだ。しかたがないので、あいまいな部分は勝手に解釈して申込書を記入し、不安を抱えながら送付したのが先週のことである。

 今週になりNTTにサービスを終了することを伝える。すると、新しい番号を教えてくれれば、メッセージを流してくれるという。USENにIP電話を申し込んでから一週間以上たつので、そろそろ電話番号も決まっているだろうと、再びカスタマー・センターに電話をするがやはり簡単には繋がらない。そこで、スピーカー・フォンにして他のことをしながら待つと、50分ほどしてやっと繋がる。この段階で、「こんな調子で、故障でもしたらすぐにサービスが受けられるのだろうか?」と少し心配になる。

 事情を説明すると、「少々お待ちください」と待たされる。しばらくして、「お客様の申込書はまだデータベースに入力されていません」との答えが帰ってくる。「そう言われても、来年の7日には新しい住所に住むのだから、それ以前に新しい番号は教えて欲しい」と言うと、「データベースに入力されていないので何とも言えない」の一点張りである。不安になり、「7日には引っ越すのですが、それまでには電話は繋がるのですよね」と聞くと、「通常申し込みから2-3週間かかりますが、いつ開通するかは保障できません。お客さんの申込書はこの段階でまだデータベースに入力されていないので、たぶん7日にはむりだと思います」という。まるで、申込書のデータベースへの入力が遅れているのは不可抗力であるかのような無責任な発言である。

 そこで、「引っ越して電話なしで何日も過ごすわけには行かない、少なくともいつから電話が使えるようになるか教えて欲しい」と言っても、「データベースが…」と繰り返すばかりである。やむ終えず、「そんなことも保障できないなら、NTTを使うしかないがそれでもいいのか」と言ってみるが、全く反応しない。マニュアル通りにしか反応できないバイト君らしい。

 しかたがないので、ひとまず役に立たないバイト君は解放してあげることにし、マンションのディベロッパー経由で、USENのマンション営業の担当者にコンタクトする。事情を説明するとさすがに恐縮しているが、もっと悪いニュースをくれた。申し込み後、2~3週間でまずIDとメールアドレスが発行され、それからさらに約一ヵ月後にIP電話が開通するそうである。「何とか早くするように手を回す」とは言ってくれたが、一連のプロセスでUSENに対する信頼度は地に落ちてしまった。

 この段階でUSENには見切りをつけ、NTTに電話をする。116にダイアルしてわずか数秒で繋がる。引越しの日を伝えると、当然のようにその日に工事をしてくれると言い、さらに、その場で新しい電話番号をくれる。非常にてきぱきした対応で、まさに「顧客サービスはこうあるべき」という訓練をきちっと受けた対応である。当然、NTT内部では書類手続きだとか、データベースへの入力、工事に必要な人員の確保などがあるだろうが、そんな「裏方の事情」を顧客には一切見せない、とても気持ちの良い対応であった。

 とりあえず今の段階での結論であるが、やはりまだIP電話はNTTに太刀打ちできていない、というのが正直な感想である。それも、IP電話の問題点は、「IPv4 のパケットネットワーク上で QoS が保てない」などの技術的な問題にあるのではなく、「顧客サービス」というもっと身近な所にある、というのが今回の経験から学んだことである。とかく「技術的な優位性」ばかりかかげて、トータルなサービスの質やコストを考えずにビジネスを考えてはいけないという良い反面教師である。


桂花ラーメン

041223_131616  一つ前のエントリーで、「ラーメンのスープを飲みほすのは体に悪いので、よほどおいしいラーメンでないと飲みほしてはいけない」というラーメンを食べるときの大原則(伊丹監督に敬意を表して、ひそかに「たんぽぽの大原則」と呼んでいる)について書いたように私は大のラーメン好きである。

 シアトルに暮らしていて悲しいことの一つは「おいしいラーメン」が食べられないことであり、いきおい日本にいる間はラーメンを食べることが多くなる。しかし、デザートと同じく、ラーメンも「おいしいが健康に悪い」という面を持っており、同じく「量より質」を目指すことになる。それに加え、ことラーメンに関してだけは「舌が肥えて」しまっているため、おいしいラーメンを食べるためにわざわざ遠回りをして移動したり、恵比寿近辺でのミーティングはわざわざお昼前後にスケジュールしたり、している私である。

 特に最近は「グルメ本」が沢山発行されているので、東京に来るたびに色々と試しているのだが、なかなか気に入りの老舗を超える味は見つからないのが現実である。新宿の武蔵、経堂の英、などマスコミがはやし立てたおかげで行列だけは長いが、やはり、桂花、丸福、香月などの昔からの味を守り続けているところにはかなわない。

 昨日は久しぶりに妻と新宿で昼食を食べることになったので、ほぼ自動的に「桂花ラーメン」に決まった。新宿アルタの脇の小道ぞいにある間口二間ぐらいの店の二階に体をかがめながら入り、「太肉麺」を注文する。そろそろ「豚肉の角煮」は避けなければならない年齢だが、これだけはやめられない。

 出されてまず、スープを一口。最高である。とんこつスープでここにかなう店はない。「九州じゃんがら」や先の「英」の方が、遥かにマーケティングは上手で、行列は出来ているが、実際に食べてみればその差は歴然である。麺は桂花特有のコシのある麺で、これに関しては好き嫌いが分かれるところだとは思うが、私にはぴったりである。桂花に出会うまでは「麺は絶対に縮れていなければだめだ」と言っていた私を一度で転向させてしまった力を持つ麺である。

 とろとろに煮込んだ豚の角煮と、とんこつスープにからんだ麺を食べているうちに、またもスープを飲み干してしまった。これだけおいしければ1日・2日寿命が縮まってもしかたがないと思えるおいしさである。まさに、「君のためなら死ねる」ラーメンである。


ミルフィーユの悩み

041223_151355 私は甘いものとてもが好きだが、そろそろ健康も気にしなければいけない年齢になってしまった。特に一時的に80キロを超えてしまって以来(今は74キロ)、「毎日体重計に乗るダイエット」を続けており、常に健康のことは気にかけるようにしている(このダイエット法はとても簡単で効果的なのでお勧めである。ただ、毎日風呂に入る前に体重をチェックするだけで良いのである。)。かといって、おいしいものを食べずに長生きしてもしかたがないので、デザートに関しては、「量より質」を目指すことになる。つまり、「せっかく体に悪いものを食べるのならよほどおいしいものでなければならない」というポリシーを持ってデザート類に対しているのである。

 このポリシーを通すには、食べ始めたデザートがまずかった場合は、「こんなまずいもので太るのはいやだ」と途中でやめる勇気が必要である。逆に、これは、と思ったデザートを食べるときは、「君のためなら死ねる」という思いで望むのである(「君のためなら死ねる」の語源については、こちらを参照)。「ラーメンのスープを飲みほすのは体に悪いので、よほどおいしいラーメンでないと飲みほしてはいけない」というラーメンを食べるときの大原則と同じである。

 そんな私には、デザートの「死ねるリスト」(つまり、健康を害してでも食べたいデザートのリスト)があり、その短いが名誉あるリストに「東京ばななのチーズウサギ」だとか「コージーコーナーのシュークリーム」が名を連ねているのである。その一つがこの写真の「ベルンのミルフィーユ」なのだが、一つ困ったことがある。

 ベルンのミルフィーユは、「スイート・チョコレート」、「ハイ・ミルク・チョコレート」、「ヘーゼル・ナッツ・チョコレート」の3種類の味があるのだが、そのうちダーク・チョコレートを使った「スイート・チョコレート」がやたらとおいしく、それのみが「死ねるリスト」に入る価値があるのである。当然、私としては「スイート・チョコレート味」だけを箱に詰めて買いたいところだが、店は3つの味をバランスよく混ぜて、3個入り・9個入り・12個入り・24個入りの詰め合わせしか売ってくれないである。買うたびに、「バラで売っていただけませんか」と交渉するのだが、私の望みは一度も聞いてもらえたことがない。

 結果として、いつも3つの味の詰め合わせを買って帰り、自分だけ「スイート・チョコレート」味を食べ、残りは家族に食べてもらう、というすごく自分勝手なことをすることになる。そのたびに良心が少し痛むのだが、「スポンサーは私なのだから」と勝手な言い訳をしてごまかしている。

 ちなみに、今日の店員も融通が利かず「バラ売り」はしてくれなかったのだが、一つ貴重な情報をくれた。年に一度だけ12月の上旬に2週間ほど「バラ売り」をすることになったそうである。今年はあいにく逃してしまったが、来年は必ず買いに来なければいけない。さっそく来年のカレンダーには書いておこう。

[追記]ちなみに、ベルンの「スイート・チョコレート」は完全な英語の誤用である。カカオ成分を高めに砂糖を抑えて苦めに仕上げてあるチョコレートは、日本ではダーク・チョコレート、もしくはビター・チョコレート(ビタチョコ)と呼ばれているが、英語ではセミ・スイート・チョコレートが正しい。Semi-sweet、つまり、「少ししか甘くない」という意味である。Semi-conductor(半導体)、semi-professional (セミプロ)の semi- である。しかし、ベルンは、この肝心な semi- を落としてしまい、単にスイート・チョコレートを呼んでしまっているので、全く逆の意味になってしまっているという皮肉なことになってしまっているのである。  


空中ブランコ (奥田英郎著)

041208_001042  先月東京からシアトルに戻るときに、空港でたまたま見かけて、つい買ってしまったのがこの本である。ずいぶん前のことなので、どのブログで見たのかすら忘れてしまったが、この本の書評が出ていたのを覚えていたのだ。

 「飛行機の中で退屈しのぎが出来ればいいか」ぐらいの軽い気持ちで手に取ったのだが、中々の秀作であった。一作ごとに異なる人物を主人公にし、その人たちが患者として接する精神科医、伊良部一郎(とFカップの美人看護婦)のハチャメチャさを描くという短編集の形をとっているところがとても読みやすく、一気に読んでしまった。

 ユーモアを通して、「りっぱな社会人」であろうとするばかりにストレスをため込んでいる現代人の生き方に、ストレートに疑問を投げかけているところがとても良い。読者が、「ああ、私ももっと肩の力を抜いて生きて行こう」と少しでも思って日々のストレスから開放されてくれれば、著者も本望であろう。かく言う私も、そう感じたのだが、「あなたは十分自分勝手でストレスなんかないんだから、これ以上肩の力を抜く必要はないわよ」という妻の声が聞こえて来そうである。

 ちなみに、日本に戻ってから、実はこの「空中ブランコ」は、「伊良部シリーズ」の第二作であることを発見し、第一作の「イン・ザ・プール」を読み始めたが、作品としてのキレは第二作の「空中ブランコ」の方が良い、というのが正直な感想である。ちなみに、それぞれ独立した短編を集めた作品なので、読む順番はどうでもかまわない。これから読む人は、第二作の「空中ブランコ」から読み始めることをお勧めする。

[著者、奥田英郎さんへのメッセージ] 奥田さん、「伊良部シリーズ」第三作、楽しみにしています。絶対読みますので、ぜひ書いてください。ちなみに、たぶん、映画化・ドラマ化の話が来る・来ていると思いますが、キャスト選びは私たちファンのイメージを壊さないように、プロデューサーや監督まかせにせずに、慎重に願います。看護婦は、もちろん小池栄子に決まりですが、伊良部医師は難しいですね。雰囲気としては小日向文世さんに演じて欲しいところですが、太っていないのが残念です。太っているからといって、西田敏行だけはやめてくださいね。


空飛ぶオフィス(2)

Nwa_games ノースウェストのシアトル・東京便の機種が新しくなり、ノートブック用の110Vの電源が使えるようになったことは前に書いた。前回は仕事ばかりしていたのだが、今回は少し息抜きで座席のエンターテイメント・システムに付いているゲームをしてみた。

 一つは Palm Computer用のゲームで有名な Bejeweled で、テトリスと同じく、脳をアイドリング状態にして何時間もプレーするには「落ちゲー」である。数ある「落ちゲー」の中で、なぜ Bejewelled かというのは、関係者しか分からないことだが、私の思うに、「大手はビジネスとしては小さすぎて移植を嫌がった(未確認だが端末は Linux らしい)」か、「大手のライセンス料は高すぎた」かのどちらかだろう。

 もう一つはオセロ・ゲームであった。驚いたことに、対コンピューター・モードだけでなく、対人モードもある。「初の機内オンライン・ゲームだ!」と張り切って試してみるが、残念ながら対戦相手がいない。良く見てみると、2人同時に「相手を探す」画面を見ていない限り見つけられない設計になっており、これではゲームは成立しない。「対戦オセロ・プレーヤーとして登録」しておき、相手が現れたときにメッセージを送ってくるようにでもしておかないと決してうまく行かない。

 しかたがないので、対コンピューター・モードで試してみるが、ものすごく弱い。赤子の手をひねるようにして勝ててしまう。そこで、勝手に「全部取れたら勝ち、そうでなければ負け」というルールを勝手に作り、しばらく遊ぶ。しかし、何度かやるうちに必勝パターンを見つけてしまい、これも面白くなくなる。そこで、「角は全部相手に取らせる」というルールで試すが、さすがにこれでは勝てない。次に、「角は3箇所相手に取らせる」というルールでやってみると、これでも簡単に勝ててしまう。

 こんなことをやっていてフト思ったのが、「こんなことを昔したことがある」というデジャブ感覚である。考えてみると、遥か昔、高校時代に私の最初の愛機 TK-80 向けに(アセンブラで)オセロ・ゲームを作ったことがあり、その時にも同じことをして遊んでいたのである。メモリが4KBしかなかったので、ろくな先読みが出来ずに(2手先までしか読めなかった)やたらと弱いオセロ・ゲームになってしまったのを覚えている。とは言っても、自分の書いたゲームで遊んで見たかったので、色々とハンデを与えて遊んでいたのである。

 ちなみに、こういった組み込み機器を見ていると、あたかも TK-80 の時代に戻ったようで妙に懐かしい。CPUはなんだろうとか、メモリはどのくらい積んでいるのかとか、とても気になる。私もお酒が飲めたら、若いエンジニアーをつかまえて、「今の若い奴らはアセンブラも書けねーのにいっぱしのプログラマー気取りで困ったもんだ。オメーらもアセンブラから、いや、半田ごてからやり直して来いッ、ヒック」とお説教をたれるのだろうか…


風邪の治療法の最先端

041205_210734_1  久しぶりに風邪をひいてしまった。時差ぼけで夜中に起きてしまい、寝巻きのままメールのチェックなどをしていたのがいけないらしい。米国の家庭で一般的なセントラル・ヒーティング・システムは、通常の生活サイクルを保っている限り最適だが、夜中に眠れないときなどに「局所的にすばやく暖める」ことができないのが難点である。

 ちなみに、私は医者でも医学を正式に勉強したわけではないが、こと「風邪の治療」に関しては自分なりの学説を持ち、風邪をひくたびにその学説に基づいた(最先端の?)治療をしている。今回はその学説をこの場を借りて発表しようと思う。

 まず大切なことは、「なぜ風邪をひくと熱が出るのか」を理解することである。

 西洋医学においては、ごく最近(たぶんわずか20~30年前ぐらい)まで、風邪をひいたときは出来るだけ早く熱を下げた方が良いと信じられていた。そのため、アスピリンやアセタミノフェンを含んだ「風邪薬」が作られ、今でも市販されているのだ。日本では聞いたことが無いが、米国では「風邪をひいて熱が出たときは水風呂に入って熱を下げる」という治療方がごく最近までとられていたようだ(少し古い育児書にはその記述がある)。

 しかし、最近になって、熱を上げているのは体に入ったばい菌ではなく、体の免疫システムが「ばい菌と戦いやすくするため、わざわざ体温を上げている」のだということが分かってきたのだ。なぜ体温が高い方が戦いやすいのかは、「抗体の働き」だとか「ばい菌の繁殖条件」だとかが複雑に絡み合っているので100%解明されているわけではないが、とにかく「熱がある程度高い方が戦いやすい」ということだけ理解すれば十分である。

 南極の建物に白熊の群れ(白熊は本来群れないのだがそこは無視して欲しい)が乱入してきた場面を想像してほしい。麻酔銃を手に鎮圧にかかるのも良いが、まずは建物全体の暖房を30度ぐらいに上げるのが一番効果的だろう。暑さにぐったりとするのを待って捕獲したほうが、ずっと安全である。「風邪で熱が上がった」状態というのは、この場合で言うと「建物全体の暖房をわざと上げた」状態に相当するのである。

 この辺りの事情を理解せずに「熱が上がるのはばい菌のせいだから」とむやみに熱を下げていたのがつい最近までの西洋医学が行なってきた過ちである。皮肉なことに、「風邪をひいたときは卵酒でも飲んで暖かくしていて寝ていた方が良い」という日本古来の民間療法の方が、ずっと理にかなっていたのである。

 この最新の医学知識に基づいて私が実践している治療法は、「葛根湯と布団蒸し」である。「風邪かな」と思ったら、葛根湯を暖かい白湯でのみ(葛根湯は発汗作用を促す)、普段より暖かめの布団をかぶって早めに寝るのだ。2~3時間で思い切り汗をかき、暑くて目が覚めるので、寝巻きを着替えて再び寝る、というのを一晩続けるのだ(朝になるとシーツ一式を洗わなければいけなくなってしまうので妻には評判が悪い)。私の場合、これだけでほぼ確実に風邪を治せてしまう。熱っぽさばかりでなく、のどの痛みなども不思議と取れてしまうのが、「戦っている免疫システム」を実感できてとても良い。

 とは言っても、あくまで「民間療法」なことを覚えておいていただきたい(英語で言う "disclaimer")。葛根湯が体に合わない人もいるらしいし、汗をかいたまま目を覚まさずに布団をはいでしまい、かえって体を冷やしてしまう人もあるかも知れないので要注意である。医大を出たわけでもない私が、偉そうに自説を発表できてしまう所がある意味素晴らしいけど、恐ろしい部分でもある。将来、グーグルで「風邪の治療法」とサーチをしてこのブログに来る人もいるはずだと思うと、妙に責任を感じてしまう私である。


天動説と地動説

Orbit_2 時差ぼけの解消のために早起きをして時間つぶしをしていると、こんな質問をネットに見つけた。

 地球から見ると太陽が動いて見えます.太陽から見るとおそらく地球は動いて見えると思います.一般的に言われている「地球は太陽の周りをまわっている」という現象は一体どこから見ているんでしょうか?絶対的な基準となる神様の視点みたいなやつがあるんでしょうか?

 子供のころにこの手の(一歩踏み込んだ)質問をして、ちゃんと答えてもらえずに終わってしまった経験が何度もある。質問の仕方も悪かったのだろうが、後で考えてみると「相手が何を質問しているのか理解すること」って結構難しいのである。この質問もまさにそうで、質問の意味を理解せずに、「太陽のまわりを地球がまわっているのに決まっているだろ。小学校は出たのか?」と答えてしまいそうだが、良く考えてみると実は(「科学うんちく」の大好きな私から見て)「とても良い質問である」。

  この質問の主は、(たぶん相対性理論の一部を聞きかじったのだと思うが)「この世界に絶対座標なんてものはないのだから、どちらを中心に考えても良いはず。どうして太陽を中心に考えるべきなのか?」という結構本質的な質問をしているのである。

 そこでこの質問に対する答えだが、「(月だとか木星だとかの)他の天体による影響を無視し、かつ銀河系規模での太陽系そのものの動きなどを無視すれば、地球と太陽を会わせた重心(共通重心)を中心にそれぞれがまわっている」というのが正しい。ただし、たまたま太陽の方が地球より遥かに重いので、その共通重心はずっと太陽より(太陽の中)になってしまっているのである。そのため、大まかな動きを説明する場合は、地球の重力が太陽におよぼす影響を無視して、地球が太陽の周りをまわっていることにしてしまっても大差はないということで多くの教科書はそう説明しているのである。

 二人の人が底の平らな靴をはいて氷の上で一定の長さのひもで相手のことを引っ張り会いながらぐるぐるまわっている姿を想像すると良く分かる。二人の体重が全く同じならば、二人はひもの真ん中を中心にしてまわる。もし、一人が体重200キロでの相撲取りで、もう一人が体重20キロの子供だと、見かけ上はほとんど相撲取りを中心に子供が振り回されているように見える。しかし、厳密にはたとえわずか20キロの子供とはいえその遠心力によって相撲取りを引っ張るので、その引っ張りに抵抗するために相撲取りもわずかに重心を子供と反対向きに保っている必要がある。それが相撲取りの重心の円運動を起こし、正確には「子供も相撲取りも二人の共通重心の周りをまわっている状態」になるのである。

 ちなみに、この手の「科学うんちく」は使う場をわきまえなければいけないのがつらい。例えばデートでスケート場に行ったときにそんな場面に出会っても、決して「あれは厳密には子供が振り回されているのではなく、二人の共通重心が…」などとは始めるのは絶対まずい。