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Longhorn は Cairo か?

050125_114801   マイクロソフトを退社してもう5年近く経つが、シアトル近郊に住んでいる限り、マイクロソフト関係の知り合いに会うことも多い。今日も、近所のスターバックスで Windows95 時代の同僚の Joe Belfiore にばったりと出会って話し込んでしまった。

 Joe は Microsoft の eHome Division の General Manager だ。私が家のAVシステムにパソコンを繋ごうとしていることを話すと、さかんに Media Center PC を薦められてしまった。「Satoshi ならきっといいアイデアをくれるはずだから、自分でパソコンを作るならOSはプレゼントするよ」とまで言ってくれ、いまさら、Mac の Mini を買おうとしていたとは言いにくくなってしまった。でも、本来OEMでしか供給されていない Media Center OS を組み込んだ自作パソコンを作る、っていうのもマイクロソフトに知り合いがいなければ出来ない芸当なので、かなり魅力的な話だ。悩んでしまう…

 ちなみに、マイクロソフト関連の知り合いと会うと、必ず話題になるのが Longhorn。Longhorn の目玉は、新しいファイルシステムと新しいユーザーインターフェイスだったのだが、新しいファイルシステムの開発が遅れに遅れ、とうとう「ファイルシステムは後から出荷する」と発表したのが去年の末。ユーザーインターフェイスを作っている連中(ここには古くからの知り合いが多いのだが)はホッとしているらしい。それでも(ユーザーインターフェイスだけ一新したOSの)出荷が2006年だというから気が長いものだ。

 しかし、ユーザーインターフェイスを一新する一番の理由が「Windows 95 からあまり見た目の変化が無いから、ここら辺りで一新して目新しさを強調しよう」ぐらいにしか思えないのが悲しい。「次世代OS」だったはずの Longhorn はどこへ言ってしまったのだろう?

 ところで、マイクロソフトでこの手の大規模プロジェクトがこけると、いつも引き合いになるのが Cairo というプロジェクトである。Cairo は90年代前半に「Windows NT を越える次世代OS」という触れ込みでものすごい数の人材をつぎ込み、社外的にも大々的にアナウンスメントをしていたOSである。しかし、肥大化しすぎて当初の目標だった 94年に出荷することができず、Windows 95の成功がとどめを刺してしまったプロジェクトである。それ以来、プロジェクトが肥大化しそうになると、「これじゃあ Cairo の二の舞だ」とか、「Cairo 化するのを避けるためにこうしよう」とか言うようになったのだ。「Longhorn は Cairo になってしまった」というのがもっぱらの評判である。

 この Cairo プロジェクトの目玉が、やはり、「新しいユーザーインターフェイス」と「新しいファイルシステム」だったのは何とも皮肉である。結局「新しいファイルシステム」の方は日の目を見ず、「新しいユーザーインターフェイス」だけがWindows 95という形になって出たのが1995年のことである。それからさらに10年以上経って、全く同じことを繰り返しているマイクロソフトっていったい何なんだ、と思う。もっとすごいのは、Cairo のファイルシステムの主任設計者が、実は、Longhorn のファイルシステムの設計者の一人だという事実である。「次世代ファイルシステム」は彼のライフ・ワークになってしまったようだ。

 ちなみに、Windows のファイルシステムは MS-DOS の時代に設計されたままマイナーチェンジを繰り返してきた FAT ファイルシステムと呼ばれるものだが、そのシステムの最初の方のセクターに "MZ" という文字が隠されているのだが、これが彼の頭文字だっていうことは知る人ぞ知る事実である。

[追記]写真は本文とは全く関係のない「アスパラの肉巻き」。先日紹介した「レンジでゆで野菜」で軽くゆでてから肉を巻いて強火で炒めると、肉には適度な焦げ目がついて、アスパラはシャキッとしたままなので、とてもおいしいことを発見。「レンジでゆで野菜」にはほとんど毎日お世話になっている。


ゆで野菜のオリーブオイル炒め

050117_023454  年が明けてシアトルに戻ってきたのだが、地面が凍りついており、週末の楽しみのゴルフができない。仕事がたまっていたのでちょうど良いと言えば良いのだが、週末に朝から晩までガンガン仕事をして、無言のプレッシャーをかけまくる上司を持ったアメリカ人は少し不幸かも知れない。月曜の朝になって私からのメールでいっぱいになったメールボックスを開いたときの彼らの顔が見たい。

 そんな私が今回日本で手に入れたのが、「レンジでゆで野菜」というすぐれものの調理器具。(日本に住む)妻が生協から買って封を切らずにキッチンに置いてあったものをちょうだいして来たのだが、とても便利である。水切りの付いた中カゴで野菜を洗い、容器に入れてそのまま電子レンジにかければよい(「チンする」という現代用語はどうも恥ずかしくて使えない)。お湯を使ってゆでないので、栄養分が逃げ出さないところが健康にも良いらしい。

 ただし、単なる「ゆで野菜」では味気ないので、ひと工夫が必要である。色々と試してみたが、ゆでた後にサッとオリーブオイルで炒めて食べるのが一番気に入っている。こうするだけで、「健康に良いから仕方なく食べるもの」ではなく、「おいしくて健康にも良いもの」になるので大違いである。題して、「ゆで野菜のオリーブオイル炒め」である。


ゆで野菜のオリーブオイル炒め

[材料]
 一口大に切った野菜(冷凍ものでも全然かまわない。ブロッコリー、芽キャベツ、えんどう豆などがお勧め)、オリーブ・オイル、塩

[作り方・食べ方]
1.「レンジでゆで野菜」で野菜をゆでる。ゆで時間は野菜によって異なるので、別々にゆでること。ゆですぎずに、少し「シャッキリ感」が残る程度(イタリア語でアル・ダンテ)にしておくこと(重要)。
2.オリーブ・オイルを適量(大さじ半~1杯)フライパンに入れ、強火で熱しておく。
3.ゆであがった野菜をフライパンに入れ、塩を適量かけ、すばやくオイルに絡ませる。これを約10秒ほどで行うのがコツである(重要)。
4.(炒めながら火を通そうなんて思わずに)すぐに皿に盛り、熱いうちに食べる。

 注意して欲しいのは、単なる「野菜のオリーブオイル炒め」とは大きく違う点である。炒めながら火を通しているわけではないので、野菜はシャキッとしたままである。炒める作業が、「火を通す」作業ではなく、あくまで「オリーブ・オイルをドレッシング代わりに絡める」作業である点は、中華料理の炒(チャオ)と同じ要領である。

[追伸]私の入手した「レンジでゆで野菜」の紹介が写真つきでしてあるブログを発見。すかさず、トラックバック。


一枚の絵に命を賭けて…

050110_081527  今日は、久しぶりに「本気モード」で大工仕事をしてしまった。一昨年の誕生日に妻にプレゼントした絵を、ついに壁に掛けたのだ。

 ここまでのびのびになってしまったのには、さまざまな事情があるのだが、私がシアトルに置きっぱなしにしていたのが一番の原因である。足掛け2年でついに日本に上陸した絵を、妻が「ここに掛けて欲しい」と指定した場所は、なんと家の中でも最も困難な場所であった。ここまで待たせた手前、指定の場所に絵を掛けるぐらいのことはしなければ男がすたる。

 なぜ困難か、というと壁がレンガだからである(マンションなのだが、建築家がこだわってそこだけレンガの壁があしらってある)。釘が打てないし、何も張り付けることが出来ない。その上、マンションの規約上「共用部」にあたるため、ドリルで穴を開けるわけにも行かない。

 そこで、今はやりの「ピクチャー・レール」という仕組みで取り付けようと東急ハンズに行くと、どのピクチャー・レールも壁に向けてねじ止めしなければならないタイプだ。店員に相談すると、強度的な都合上、天井に向けてねじ止めするタイプのものは無いそうである。代用品を一緒に探してもらうが、使える物が見つからない。天井がよくある「プラスター・ボード(石膏ボード)」であるため、どれも強度的に問題があるのである。

 私が困った顔をしていると、その店員は親切にも別のベテラン店員を連れてきてくれた。その店員はさすがにベテランだけあり、すらすらと「お客様の必要としているようなものは置いていませんが、『ねじくぎ』よりも垂直方向の引っ張り強度の強い特殊な『留め具』があるので、それと他の部品を組み合わせれば可能かも知れません」と、その『留め具』のところに連れて行ってくれた。

 その『留め具』はなかなかの優れもので、小さな釘を三つ互いに異なる角度で打ち込むことにより、2.7キロまでの垂直加重に耐えられるのである(「ああ、あれか」と思い浮かべてくれる人は多くないかもしれないが、ちょうど遺伝子を細胞内に打ち込むタイプのウィルスのモデル図に似た形をしている)。それを4つ使えば十分な強度が得られそうである。後は、4つ穴のプレートでピクチャーレール用のワイアを引っ掛けられるようになっているものさえ見つければ良い。

 ベテラン店員にお礼を言い、そこからは一人で探したのだが、かなり苦労してしまった。通常のフック類を全て見たのだが、私の必要としている形のプレートは存在しないのである。半ばあきらめ気味に捜索範囲を広げると、「耐震装置コーナー」というところがあり、家具を地震でも倒れないようにする仕掛けなどを売っているのである。かすかな期待を持って見てみると、ワイアで家具を壁に固定するタイプの仕掛けがあり、その部品の一つが私のイメージしていたフック付き4つ穴プレートにぴったりなのだ。

 そこで、その「耐震装置」、「ウィルス型留め具」、「ピクチャー・レール用ワイア」を購入し(4000円近くかかってしまった)、早速家に帰って取り付け始める。するとまるでその3つの部品は、あたかも最初からそう使われることを前提に作られていたかのようにしっくりと組み合わさり、私のイメージ通りに絵を掛けることができるではないか。

 もちろん妻には喜んでもらえたが、一番喜んでいるのは、この「難しいエンジニアリング・チャレンジ」を解決できた私である。ソフトウェアのプロジェクトでも、複数の部品を組み合わせて動かさなければならないことが多いのだが、ほとんどの場合が計画通りには行かない。それだからこそ、たまにこのケースのように「一発でうまく行く」とものすごく気持ちが良いものである。

[追記:2月21日]
 絵を壁にかける方法について解説してある良いページを発見。このページによると、この「ウィルス型留め具」は一般には「Xフック」と呼ばれているらしい。このページには石膏ボード向けではないと書いてあるが、私の買ってきたパッケージには、「石膏ボード向け」と書いてあった。どちらが正しいのだろう。一ヶ月経った今でも絵は無事に吊るされているので、とりあえずは問題なさそうだ。


持つだけで楽しい万歩計

050108_224934  シアトルにいるときは週2~3のスポーツクラブ通いを始めた私だが、日本に来ている間は全く運動しなくなってしまう。これではいけないと考えたのが「一日一万歩エクササイズ作戦」である。

 もともと歩くのは嫌いな方ではないので、万歩計を持って「必ず毎日一万歩」を目標に一駅でも二駅でも多く歩くのは日本で一番手軽にできるエクササイズである。ちょうど、年の初めでもあるし、滅多にしない「年初の目標設定」をするのもよかろうと、早速万歩計を昨晩入手した。

 家に帰って万歩計を見せた父を待っていた家族の反応は、「万歩計?ダサッ!」、「まさか、それで毎日一万歩歩くのを今年の目標なんて、あなたらしくないことをするんじゃないでしょうね。」、「でも、3日で終わればパパらしいんじゃない」という暖かいものであった。持つべきものは家族である。

 というわけで、「一日一万歩エクササイズ作戦」は、初っ端から挫折ムードいっぱいになってしまった。そこで、作戦を急遽変更し、「毎日万歩計を装着するだけ作戦」に変更することにした。これならプレッシャーは少ないし、毎日体重計に乗るだけ」という一見とても消極的なダイエット法で5キロ減量した私に向いているような気がする。

 そこで、さっそく今日から一日中装着してどのくらい行くものか試してみた。初めてつけた万歩計なので楽しくなり、「犬の散歩2回、駅まで昼食と買い物で3回」も行った結果、11546歩と見事に一万歩を越す結果となった。このわずか一日の測定結果から言えることは、

(1)(何日続くか分からないが)万歩計を持つだけで歩くのが楽しくなる。
(2)意識して歩くようにすれば、(休日であれば)一日一万歩はそれほど難しくない。

という二点である。何でもそうだが、楽しくなければ続けるのが難しいので、特に(1)の「持つだけで楽しい」部分が大切である。つまり、「持つだけで楽しい万歩計」を発明することができたら大ブレークをする可能性があるわけで、明日はそれを「おかず」に(もちろん万歩計を装着して)散歩をしようと計画している私である。

[追記:2日目]今日(日曜日)は、少しいつもより長い犬の散歩で5千歩を朝飯前に稼ぎ出し、午後に東急ハンズで探し物をしていたらあっという間に1万歩を越え、最終的には 14260 歩であった。残念ながら「持つだけで楽しい万歩計」の新しいアイデアは生まれず。


宮崎アニメと不確定性原理

050103_134918  知人のブログに、"ハウルの動く城"はロバの耳というタイトルで、「メジャーになってしまったものに関しては自分の意見がすなおに言えなくなってしまう」問題点が指摘してあった。私は昔から他の人たちと違う意見を言うのをためらわないたちなので、こういう問題はないが、「昔からファンだった人がメジャーになった段階からその人の作品を昔ほど楽しめなくなってしまう」という悩みがある。

 宮崎アニメに関しては、まさに端的にそれが当てはまる。「少年コナン」から始まり、「ハウル…」まで全ての作品を見ている私だが、「素直に心のそこから感動できた作品」は、「少年コナン」、「トトロ」、「ナウシカ」、「ラピュタ」、「魔女の宅急便」だけである。

 ただし、「なぜ」と言われると非常に説明が難しい。他の作品も良くできていたし、それなりに楽しめたのだが、「今でも何度も見直したい」、「思い出しただけで心が温かくなる」のはその5作品だけである。

 それが果たして作品の質の違いによるものなのか、(宮崎アニメに慣れてしまった)私自身の内的変化によるものなのかが、どうも判断しかねる。正直に自分の気持ちをあらわすとすれば、「初期の作品を見たときに『愛』を胸いっぱいに感じたのだが、最近の作品(「ナウシカ」あたりから)それを徐々に感じなくなっている」というのが一番正確な表現なのだが、作品のどんな部分がその違いを生み出しているのかうまく説明できない。

 全く同じことが、「宮部みゆき」の作品にも当てはまる。宮部の作品は全て読んでいる私だが、本当に心の底から感動したのは「龍は眠る」と「レベル7」だけである。じゃあ、「他の作品は駄作か」というと決してそんなことはないのだが(だから買い続けている)、なぜかその初期の2作品で味わった「桁違いの感動」をもう味わうことが残念ながらできないのである。

 あなたの回りにも、「○○の新作は良く出来ているが、やはり初期の作品は越えられない」などと一見偏屈なことを言いながらファンを続けている友人がいるかも知れないが、そんな人はたぶん私と同じ悩みを抱えているのだろうから、暖かく見守ってやって欲しい。


謹賀新年(初日の出はイメージです)

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 あけましておめでとうございます。

 今年の元旦も、去年に続いて湯河原の眺望山荘にて迎えることになった。去年と同じく朝日の見える個室露天風呂付きの部屋に泊まれたので、「今年こそは海から登る初日の出の写真をこのブログに」と計画していたのだが、しっかりと寝坊してしまった。本当は大晦日であろうと、早寝をして元日に備えたいところだが、なかなかそうはさせてもらえない。

 仕方がないので、2日に早起きをして朝風呂を浴びながら日の出の写真を撮ると、なんと珍しくも綺麗に水平線から登る朝日が撮れるではないか。いままで、水平線から登る初日の出の撮影は何度か試みたことがあるのだが、いつも水平線に水蒸気が発生してしまい、うまく撮影できなかったのだ。元日に早起きしていた息子によると、やはり水蒸気が発生していたそうで、こんな写真は撮れなかったらしい。皮肉なものである。

 これを撮りながら思ったのだが、プロがポスター用に撮った正月用の初日の出の写真のどのくらいが実際に本当の初日の出を撮影したものなのだろう。ポスター用の写真においては、見栄えが最優先であり、そんな写真を撮るときに、プロのカメラマンが「本当の初日の出」を撮ることにこだわるとはどうも思えない。元日に水平線の水蒸気でうまく撮影できなかったからといって、クライアントに「来年まで待ってください」とは言えないはずである。私の想像するに、正月近辺に何日かに渡って写真を撮り、一番良く撮れたものを採用しているに違いないと思う。

 もし本当にそうなら、インスタント食品のパッケージと同じく、ポスターの端っこに小さな書体で「この初日の出はイメージで、実際に撮影されたのは平成17年1月3日です」などと但し書きを書くべきではないかと思う(のはたぶん私だけだろう)。

 などと、また「うんちく」を書いてしまったが、どうも「初日の出」の写真を撮れなかった言い訳にしか思えなくなってきたので今日はこれぐらいにしておこう。

 ちなみに、あの「○○はイメージです」の「イメージ」という外来語の使い方は、元の英語の意味からかなり逸脱している。一番近いのは、"A mental picture of something not real or present"(dictionary.com より引用)であるが、それはどちらかというと「頭に浮かぶ」想像図のことで、実際の写真を指して使うのは誤りである。特に「写真はイメージです」というフレーズはどう考えてもおかしい。直訳すると、「This picture is an image」となって何の意味も持たない英語になってしまう。実際は、「この写真は、あなたの購買意欲をそそるためにでっち上げた想像写真でしかなく、このパッケージの中身とは大きく異なります。実際の商品を見てがっかりしたり、誇大広告で訴えたりしないでくださいね」という意味で使っているのだろうが、「写真はイメージです」は日本語としてもあまりにひどいと思う。せめて、実際の商品に少し手を加えたものの写真を撮った上で、それを「調理例」として乗せて欲しい。