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車載カラオケ

Auto_karaoke ずいぶん前から、「誰か作ってくれないかな」、と心待ちにしているのだが、なかなか出てこないので、このブログを利用してメーカーの方々にお願いする。ぜひとも、歌詞表示付きの「車載カラオケ」を作っていただきたい。

 横の合成画像を見ていただければ一目瞭然だと思うが、戦闘機などで使われている反射型のディスプレイで、フロントガラスに文字を投射する仕掛けを使うのだ。半透明にしておけば運転には差し支えないので、伴奏に合わせて歌詞を表示してくれるだけで良い。

 私のように車で通勤しているカラオケが好きには、カーナビなんかよりもはるかに利用価値の高いデバイスである。特に渋滞の時なんかは最適である。できれば通信カラオケにしてもらって、歌い放題のサービスにしてもらえれば、月々2000円ぐらいは払う人が沢山いると思う。デバイス側も、工場出荷価格10万円以下で十分作れると思うのだがどうだろうか。

 以前、日本の某大手入力機器メーカーの入力デバイス部門の部長さんと食事をしたことがあったのだが、その時に結構真剣に、「作ってください」とお願いしたのだが、願いはかなえてもらえなかった。その人は、「安全上問題があるから許可をとるのが難しいかも」と言っていたが、「目線を動かさなければならないカーナビ」や、「歌詞カードを片手に持って運転する」より、ずっと安全だと思う。

 渋滞でいらいらする心配もないし、歌っていれば眠り運転の心配もない。反抗期の子供を抱えた家族での長距離ドライブも、言葉に詰まって気まずくなることもない。いいことずくめの「車載カラオケ」、早く欲しいな~…


相転移

Ice 「相転移」という言葉をビジネス用語として最初に使ったのが誰かは知らないが(ソニーの出井氏が好んで使っていたようだ)、理科系頭の私には妙にしっくりとする言葉だ。相転移とは、例えば、氷が0℃で水になる時(もしくは水が100℃で水蒸気になるとき)、それぞれの水分子間の関係が大きく変わり、今までの法則が成り立たなくなってしまう現象を指す。すなわち、氷がマイナス10℃からマイナス8℃に変化するときの法則(例えば温度の変化に応じた体積の変化)は、それを更にマイナス6℃に暖めたときにもそのまま通用するが、0℃を境に大きく法則が変わり、それまでの法則が通用しなくなるのである。

 これをビジネスに当てはめると、環境の変化によってビジネスに相転移が起こると、今までの法則(常識・ノウハウ・セオリー)が当てはまらなくなり、従来のやり方でビジネスをしても勝つことができなくなってしまう状況を指す。こういった「ビジネスの相転移」に対処するのが難しい原因の一つは、古い常識の上で長年ビジネスをしてノウハウを蓄積してきた人にとって、それまでのノウハウを捨てて戦うことは、「明らかに間違った戦略に見える」ことである。トップがどんなに旗を振ったとしても、実行部隊が相転移の本質を真正面から捉えることができずに、過去のノウハウに頼った戦術に固執する呪縛に陥ると、相転移後の勝者になることができない。

 例えば、ゲーム業界にとってのオンライン・ゲームがまさにその良い例である。従来型のゲーム端末においては、ゲームは必ずCDやカートリッジなどの「物販商品」として提供され、ゲームの状態(キャラクターのレベル)などはメモリー・カードなどに格納していた。そんなゲーム端末向けのゲーム作りにおいては、どのゲーム端末が売れるかを見極め(ハード)、その特定のゲーム端末のユーザー層を把握し(人)、そのユーザー層がどんなシナリオで遊ぶかを想定し(場所・時間)、そういった特定の「ハード・人・場所・時間」の組み合わせにマッチしたコンテンツ作りをしていれば良かった。既存のゲーム会社には、こういったもの作りのノウハウ・セオリーが蓄積しており、クリエーターたちの良し悪しもそれで決まった。

 しかし、ゲーム端末がネットワークに繋がり、コンテンツがオンライン化して来ると、様相が大きく変わってくる。まず、ゲームの提供方法が、物販からオンライン販売に変わる。それも、単に「ダウンロード販売への変化」などという生易しいものではなく、「月額課金型のサービス・ビジネス」に変革する。それに加えて、ゲームの状態がメモリー・カードではなく、サーバー側に保持されるようになるのだが、それも単にメモリーの格納場所が移っただけでなく、ユーザーがログインしていてもしていなくともバーチャルな世界は24時間存在・変化し続ける点が大きく異なる。そしてコンテンツそのものも、クリエーター達が100%作りこんでからユーザーに提供するものではなく、ユーザーそのものが重要な一員となってバーチャルな世界を一緒に作っていくという点が、大きな革新である。

 こうなると、今まで通りの「ハード・人・場所・時間」という座標軸で一元的に考えてきたノウハウなりセオリーが必ずしも通用しなくなる。端末は単に24時間変化し続けるバーチャルな世界とユーザーと繋ぐ「窓」でしかなく、特定のハードの持つ価値、ユーザーが使う時間・場所などの持つ意味も大きく変わってくる。バーチャル世界の作り方も、最初から全て作り込むパッケージ型のもの作りではなく、ユーザーの反応を見ながら、ユーザーに合わせて変更・作りこんでいくサービス型のもの作りに変更する必要がある。

 こういった「相転移」がしばしば「勝ち組」企業にとって致命的なのは、「相転移」が一気には進まないために、「勝ち組」企業の中にいる人たちになかなか危機感が理解できない点である。ゲーム業界で言えば、オンライン化という「相転移」は既に始まっているものの、オフライン・ゲームの売り上げがいきなり落ち込んだり、今までのノウハウ・セオリーが突然通じなくなったりしないのである。それ故に、既存のビジネスで成功している人たちには、なかなか「相転移」の危機感が実感できないのである。

 体の中でゆっくりと進行する病気と同じで、自覚症状が出たときには既に遅いのだが、自覚症状(=既存のビジネスの売り上げの落ち込み)が出るまではなかなかアクションがとれないのが人間の常でである。ソニーの出井氏が数年前からネットワーク対応の号令をかけていながら、結局のところソニーのどの部署もまともに対応できず、今になって「売り上げ・収益の落ち込み」、「音楽ダウンロードビジネスをアップルに持っていかれてしまう」という形の自覚症状となって現れたのが顕著な例である。古くからソニーのエレクトロニクス・ビジネスを支えていた人たちのとっては、出井氏の言葉は「机上の空論」としか写っていなかったのだろう。

 かといって、あまりにも急激に舵をきると既存のビジネスからの収入が減ってしまうし、新しい市場への先行投資で見かけの利益率が悪くなる。「相転移」を乗り切るには、そのあたりの絶妙の舵取りが必要とされるところが難しいといえば難しいが、楽しいといえば楽しい。資金力を考えれば、「既存の勝ち組」が有利なはずなのだが、勝っているこそのジレンマが適切な舵取りを難しくする。ソニーやマイクロソフトの「既存の勝ち組」の企業の経営者が今後どう「舵取り」をしていくのか見ものである。


事故防止の難しさ

Hal 原発事故の時もそうだったが、今回の事故のようなものを見ると思い出すのが、NTTに入社したての研修期間での経験である。そこで「事故防止の難しさ」を身をもって実感することができた。

 大阪吹田市の小さな電話局に3ヶ月ほどいたのだが、昼休みになると毎日のように非常ベルがなるのだ。上司によると、昼食中に顧客からの電話を受けたくない中小の事務所がいっせいに電話を「保留」状態にするため、システム側が断線事故と誤解して警告を鳴らすのだそうである。

 それなら「システムを変更すべきではないですか」と私が言うと、その電話交換機は二世代前のもので、新しい機種に更新したときにはこの問題は解決するという。つまり、この電話交換機の減価償却が終わるまでは、この電話局の人たちは毎日のように昼休みには非常ベルを聞いて仕事を続けるしかないという。

 当然、人間の性(さが)として、皆、昼休みに鳴る非常ベルにはすっかり慣れてしまい、誰もわざわざ立ち上がって、それが本当に無視して良い警告かどうかの確認はしていなかった。ミーティングの最中などは、(うるさいので)非常ベルのスイッチをオフにしてしまうことすらあった。幸い、私の研修期間中には何の問題もなかったが、もし偶然にも昼休みにすぐに対処すべき問題が起こっても(例えば110・119番を繋ぐシステムがダウンしても)、速やかな対応が行われる体制には無かったことは明らかであった。

 今回のJRの事故も、「多少の遅れは、スピードを出して取り戻す」のが暗黙の了解として日常業務の中に組み込まれており、そこに「前回のオーバーランで警告を受けたばかりの新人が再びオーバーランをしてしまってあせっていた」という状況が重なり、事故に繋がってしまったのではないかと思える。

 当然、JRはこの事故の後には、それなりの対処をするだろうが、事故の前に誰かが警告したとしてもきちんと対応できたかどうかは疑問である。NTTが不必要な非常ベルを鳴らし続けるシステムを更新できなかったのと本質的には同じ問題なのではないかと思える。

 ちなみに、NTTの電話局で毎日のように警告を鳴らしながら無視されているランプが、しだいに「2001年宇宙の旅」の HAL2001 に見えてきたのを覚えている。まるで「私を無視すると後で痛い目にあうぞ」と不吉な笑いをたたえているいるように見えた。今回の挿絵は Photoshop のベクターデータのみで描いた HAL2001 風の警告ランプ。


ブログのあるのは良い知らせ

Ajsa 普段はめったに無いのだが、先週は、偶然にも学校関係者と会う機会が二回もあった。一つ目はある分野の先端の研究をしている教授とのミーティングで、もう一つは留学生支援NPO事務局での留学生との会合である。

 どちらのケースでも感じたのは、「大学教授をいつかやって見たい」という思いである。前々から少しは感じていたのだが、やはり学校関係者と触れると、大学の持つ独特の雰囲気と環境がうらやましくなる。

 特に、教授の方は、いかにも私のあこがれる雰囲気をかもし出す人で、何故かバックパックを担いだまま、自分の研究を自慢げに話してくれた。確かに最先端の研究で目を見張る部分もあるのだが、実際に商品に使おうとすると、まだまだ足りない部分がある。しかし、私から見て「一番おいしいところ」を持って行ける立場にあるのが少しうらやましい。まだ少し早いが、ソフトウェアの開発の現役を引退した後は、学校に行って学生たちと最新のテクノロジーを使ったプロトタイプ作りに励むのも悪くないと思う。

 ちなみに、写真はNPOの事務局での座談会の様子(プライバシー保護のために、Photoshop で加工済み)。画面の左奥で腕を組んで偉そうに話しているのが私。色々と話したのだが、一番面白かったのが、「ブログの将来」に関するブレスト。コミュニケーションの一つの方法として市民権を得つつあるブログだが、まだまだ進歩させる余地はありそうだ。試しに、「留学中にご両親に定期的に手紙を書くのも大変だろうから、ブログで済ませれば?」と言ってみると、なかなか良い反応が返ってきた。自分の消息を知らせるために両親にいちいち手紙を書くのは面倒だったり、恥ずかしかったりしても、ブログなら気楽にできる。

 確かに、私もブログを利用して両親や知人にそれとなく私の日々を報告しているし、知人のブログを読んで、「元気そうだな」とか「悩みがあるのかな」と思ったりしている。つい先日も、知人の肉親の訃報をブログで知り、コメント欄で「お悔やみ」の言葉を伝えたばかりだ。すごい時代になったものだ。留学生たちの両親にとっても、「便りの無いのは良い知らせ」というあいまいなものより、「ブログのあるのは良い知らせ」の方がずっと安心できるはずだ。


鼻行類

Hana  つい最近、蛸は水中で二足歩行をするということをとあるブログから知ったのだが、そのビデオを見て最初に思い出したのが、この鼻行類

 確か大学を卒業してすぐぐらいの時に読んだのだが、この本は単に科学好きの私を楽しませてくれただけでなく、私の「ユーモア観」を形作る上で重要な役割を果たしたと思う。

 まじめな生物学の論文の形を最初から最後まで崩さず、徹底的なまでの綿密さで作りこんだこの本は、それまで「ドリフターズ」とか「モンティ・パイソン」スタイルの笑いしか知らなかった私に、全く新しい形のユーモアのあり方を教えてくれた絶品の珍書である。

 ちなみに、私の持っているのは思想社版だが、帯の言葉まで徹底している。

鼻で歩き、鼻で獲物を捕らえる哺乳類

第二次世界大戦直後、鼻で歩く一群の哺乳類が南太平洋の島々で見つかった。ダーウィン研究所のシュテンプケ教授が解明した驚くべき動物郡とその進化の様相。動物学上、今世紀最大の発見。(京都大学教授 川那部浩哉)

 書いた人も書いた人だが、それを丁寧に翻訳して、京都大学教授の推薦状までつけて出版してしまった人たちもすごい。


愛すべき理科系人間たち

040920_115535  理工学部の大学時代の友人に、常にメモ帳を持ち歩き、ジョークを聞くたびに書き取っている男がいた。なぜそんなことをしているか尋ねると、「合コンの時のネタに使えるから」だと言う。彼は、ちゃんと結婚できたのだろうか…

 これは極端な例だが、アメリカで楽しく生きていくには、ジョークの一つや二つを覚えておくことは大切だ。ゴルフ場で初対面の人とゴルフをすることなどは良くあるので、話題に困ったときや、相手がミスショットを重ねて気まずくなった場面で、覚えておいたゴルフ・ジョークを披露してその場の雰囲気を和らげる、というのはアメリカ人の良く使うテクニックだ。どのゴルフ・ジョークも、異常とも言えるほどのゴルフ好きをジョークにしたもので、それを自分になぞらえて笑うのだ。

 そういったゴルファー・ジョークと同じように、理科系人間を素材にしたジョークを集めようと探しているのだが、なかなか集まらない。ビル・ゲーツをネタにしたジョークや、特定の分野の人向けのジョークはあるのだが、純粋に理科系人間の面白さをついたジョークは以外と少ない。思いつくのは、これぐらいだ。

 3人のアメリカ人がイギリスに来て列車に乗っている。列車がハーズレーという農村地帯に差し掛かると、窓の外に一匹の黒い羊が見えた。

 それを見て、ビジネスマンが言う。「驚いたなあ。イギリスの羊は黒いんだ。」

 するとエンジニアが言う。「それは少し断定的すぎるよ。『イギリスには黒い羊もいる』というのが正しい表現だよ。」

 すると数学者が言う。「正確な表現というなら、『イギリスのハーズレー地方には、少なくとも一匹の、少なくとも右側半分が黒い羊がいる』と言うべきだよ。」

 こんなジョークを面白いと思うのは、私のような理科系人間だけかも知れないが、このジョークには理科系人間の「愛らしさ」が的確に表現されていると思う。

 私の妻も含めて、文科系の人間と話していると、平気でこの手の「イギリスの羊は黒い」みたいな断定をしてくるので、ハラハラしてしまう。彼らがずるいのは、その後「白い羊」を見たとしても、ケロッとして「あ、白い羊もいたんだ」と言えてしまう点である。理科系の私は、一旦「イギリスの羊は黒い」と言ってしまうとすごく責任を感じてしまい、後で「白い羊」を見たりすると内面的にキズついてしまうのだ。それが嫌で、理科系の私はついついこのジョークにあるような発言をしてしまうのだが、すると文科系人間の代表である妻に「何難しいこと言ってんのよ」と言う冷たい目で見られてしまうから少し悲しい。


ビーチ・ボーイズ

Hawaii_three 先週は日本に残っている長男とマウイで落ち合ってバケーション。家族4人揃ってのバケーションはずいぶん久しぶりだ。

 中三日の短い滞在なので、大好きなゴルフはあえてせず、のんびりプールサイドで本を読む計画だったのだが、あれやこれやと海遊びをしているうちにあっという間に過ぎてしまった。

 今回の旅行のハイライトはなんと言ってもサーフィン初体験。カルフォルニアの大学に行くことの決まった長男が、「一度ぐらいサーフィンを経験してからカルフォルニアに行きたい」と言うので子供たち二人にレッスンを受けさせることにしたのだが、土壇場で私も参加して、男三人で受けることになったのだ。

 幸い他の生徒がいなかったので、プライベート・レッスン状態となり、とても楽しい思いをさせてもらった。コーチは、若いころはペルーのチャンピオンだったというペルー人、昨年のハワイアン・マスターズ大会で三位だったシニア・サーファーだ。足の位置だとか手の開き方とか、細かいことを一切言わずに、「俺が合図したらまっすぐ前を向いたままボードの上に立て、下さえ向かなきゃ落ちない」というものすごく大雑把な教え方。グリップがどうだとか、手首のリリースのタイミングがどうだとか細かいことばかり教えるゴルフのレッスンとは大違いだ。それでも90分のレッスンの終わりには、三人ともなんとか波に乗れるようになったから不思議なものだ。

 レッスンそのものは一人50ドルと妥当なものだったが、高くついたのが写真である。レッスンの最中にカメラマンが海の中にまで入ってきて写真を撮っているので、「勝手にこっちの写真を撮っておいて、後で高く売りつけようとするつもりだな、絶対に買ってやるものか」と心に決めていたのだが、レッスン後に見せられたスライドショーのあまりの出来の良さに買わざる終えなくなってしまった。DVD二枚で100ドルの言い値を80ドルまで値切ったのだが、もう少し冷静だったら40~50ドルぐらいまで値切れただろう、と思うと悔やまれる。

 DVDの代金を現金で払おうとすると、「これに挟んで渡してくれ」とパンフレットを渡す。とても怪しい。税務署の職員に望遠カメラで撮影されるのを嫌がってでもいるのだろう、脱税の片棒を担いでいるようで気持ちが悪い。ちなみに、家に帰ってDVDを再生してみると、DVDビデオではなく、音楽をバックにJPEGファイルを順に表示するだけの単純な作りである。オリジナル・サイズのJPEGファイルをもらえたので、このブログに使えるので大助かりだ。一つだけ気になったのが、バックグラウンドで流すビーチ・ボーイズの「サーフィン・イン・USA」。どう考えても違法コピーのMP3ファイルが堂々と入っている。法律破りは、脱税だけじゃ足らないらしい…

Hawaii_shoHawaii_yoHawaii_saHawaii_coach


床屋の満足

Rubik3  他の夫婦にもあるとは思うが、私と妻の間には二人にしか通じない「言い回し」が幾つかある。どれも、ある特定の考え方とか行動を一言で表すものなのだで、とても便利に使っているのだが、一つ問題がある。せっかく便利なものなのに、他の人との会話で使えないのだ。たまに「この場面で使えれば便利なのに」と喉まで出かかるのだが、いつもグッと押えている。

 そこで思いついたのだが、このブログを使って、そういった「言い回し」を広めて日本語の一部にしてしまえば良いのだ。「現代用語の基礎知識」に載せるのは難しいとしても、少なくとも私の知り合いには広めることが出来るかもしれない。

 記念すべき第一弾は、『床屋の満足』である。これは、「本来顧客の満足を最優先すべき商売もしくはもの作りをしている人が、自分の満足を優先して行動してしまうこと」を意味する。語源は、筆者の名前は忘れてしまったが、大昔に読んだエッセイである。そのエッセイの筆者は、「いかにも床屋に行ってきました」という髪型をして人に合うのが恥ずかしいので、いつも床屋さんに行くと、「床屋に行ったばかりとは分からないようにしてくださいね」と頼むのだそうだ。しかし、ほとんどの床屋がそのリクエストを無視して、「いかにも床屋に行ってきました」という髪型にしてしまうらしい。彼は、床屋さんにとっては、お客を「いかにも床屋に行ってきました」というさっぱりとした髪型で店から送り出すことが仕事の充実感・満足感を与えるとても大切な要素となっている、と結論付けていた。

 このエッセイを読んで以来、私は心の中でだけ、これに相当する行動パターンを「床屋の満足」と読んできた。あるきっかけで妻にこの話をして以来、この言葉を夫婦の間では使えるようになったのだ。

 ちなみに、ウィンドウズの開発をしているときに、我々開発者は、「ダイレクト・マニュピュレーション(direct manupulation)」というユーザー・インターフェイスの手法が「直感的で使いやすい」と盲信していた。それを応用した機能の一つが、スタート・メニューのカスタマイズ機能である。スタート・メニューを開いてから、メニュー・アイテムの一つをドラッグ・ドロップして順番を入れ替えたり出来るのである。これがうまく作れた時は、結構感動し、ろくにユーザビリティ・テストをせずに出荷してしまったのだが、今になって考えて見ると、この機能はマウスの操作に慣れていないユーザーにとっては迷惑千万な機能であった。メニュー・アイテムの一つを選ぼうとしたときにマウスを間違って動かしてしまうと、思わぬ結果となってしまうのである。これこそ、ユーザーの使い勝手を無視して、開発者の満足感のために入れてしまった典型的な「床屋の満足」機能である。

 前々回のコラムの、製造コストよりエンジニアーにとっての「美学」を優先してして作ったチップの話も、やはり「床屋の満足」である。世の中を見回して見ると、明らかに設計者の自己満足のためだけに追加された機能だとか、ありがた迷惑な過剰なサービスなどが沢山ある。読者の皆さんにも、そんなものを見るたびに、「床屋の満足」という言葉を思い出して欲しい。何時の日か、この言葉が「現代用語の基礎知識」に載る日のために…


粕鮭(カスジャケ)ブレーク中

 先週、知り合いの事務所をたずねたときに、いきなり言われた。

知人 「カスジャケ、ついにブレークしましたね」
私 「(粕漬けの鮭を頭に浮かべて)粕…鮭…、ですか?」
知人 「カスタム・ジャケットですよ。ソニエリが前にやったんですが全然だめだったのに、Pが遂にブレークさせました。」

 ここでやっと分かった。携帯電話のジャケットのことだ。米国では face-plate と呼ぶのですぐにピンと来なかったのだ(ちなみに、ソニエリは Sony Ericsson のこと、P は Panasonic のこと)。

 シアトルに戻ってから調べてみると、Panasonic の提供するカスジャケ(以下、「粕鮭」と記述することにする。サーバーのことを「鯖」と書く人がいるのだから良いだろう。)のサービスはきめが細かい。色々と自分でパターンを選べるだけでなく、自分の撮った写真をアップロードして、本当の意味での「自分だけのケイタイ」を作れてしまうのだ。

 「P901iが欲しい」と思ったが、もうシアトルに戻ってしまったので早速ヨドバシカメラに買いに行くわけにもいかない。そこで、ちょうど勉強にもなるので、Photoshop を使って身近なものを「粕鮭」にしてみることにした。

 まずは、ありきたりだが「花」から。

Flower1 Flower2_1 Flower3

悪くない。その日の洋服の色に合わせてジャケットを取り替える女性がいてもおかしくない。次は、「食べ物」。

Pizza Vegi Egg

面白い、私向きだ。最後は、その辺にあるもの。

Hydro Stop Bmw

こんなのは、バーとかに置いておけば売れるかもしれない。

 ちなみに、このサービス、ユーザーが自分の画像をアップロードできる点がミソだが、それなりの問題点もはらんでいる。ユーザーが、何らかの方法で入手した著作権付きの画像をアップロードして「粕鮭」を作ることが可能なのだ。たぶん、個人使用であれば良いような気もするが、結構微妙な問題をはらんでいる。著作権の侵害に敏感な、ディズニーとかは、ユーザーが勝手にプーさん「粕鮭」を作り始めたら怒るに違いない。

 最後におまけだが、うちの犬も「粕鮭」にしてみた。妻が、「これ欲しい!」と言うに違いない。

Dog


Cell の美学

050410_084603  少し前の日経エレクトロニクス(2・28号)にソニーの Cell チップに関しての久多良木氏のインタビューが載っていたが、そこに興味深い発言を見つけた。

日経エレ Cell に内蔵される「SPE」といわれるCPUコアは8個ですが、この数の根拠は何でしょうか。
久多良木氏 「2のべき乗だから」、この一言に尽きる。これは美学です。コンピュータの世界においては、2のべき乗が大原則になっています。それ以外にはあり得ない。実は開発の途中で、米国のホテルで、それこそ徹夜状態で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を展開したことがあります。IBM社のチームも、6個にしようと提案してきた。でも僕の答えは単純、「2のべき乗」。この美学にこだわった結果、チップ寸法が221平方ミリになってしまった。この大きさは、半導体を作る立場からは好ましくない。なぜなら1ショットで露光できる面積を考慮すれば185平方ミリよりも小さくしたかった。この面積を超えたことで2倍の手間がかかってしまうのは分かっていましたが、チップ寸法やコストはいずれ時間が解決する。でもコンピューティングの歴史を変えようという勝負の中で、2のべき乗のルールから外れることは、僕には許せなかった。(以下略)

 この発言に関して、一人ディベートをしてみた。

A.賛成意見 この「エンジニアの美学」こそがソニーの創業時から伝わるソニー・スピリッツである。ソニーという会社は単に株主のものだけではなく、そこで働く技術者、世界中にいる「ソニー・ファン」のものである。久多良木氏の言うとおり、コンピューティングの歴史を変えようというほどの革命的なことをしている時に、チップの製造コストや歩留まりなどの小さなことのために妥協すべきではない。

B.反対意見 大学の研究所ではないのだから、美学などという理由でチップの設計を決めるのは間違っている。そもそもCell チップは、SPEを偶数個なら幾つ持っても良いように設計されているのだから、製造コスト・歩留まり・消費電力・市場のニーズなどを見据えた上で、「その段階でSPEを幾つ乗せるのが最適か」をビジネス面から見て柔軟に決めて行くべきである。せっかく革新的なチップを作っても、市場でビジネスとして成功しなければ意味が無い。

 ライバル会社から「悪の帝国」とも呼ばれるぐらいに「市場で勝つこと」を最優先にして突っ走ってきたマイクロソフトに長くいた私は、9:1ぐらいでBの気持ちの方が強い。そのせいか、こんな発言を聞くと不安になってしまうのだ。

 良い例が、GUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)を最初に作ったゼロックスである。大学の延長のような環境を研究者に与えているゼロックスの研究所は、今のウィンドウズやマックの基礎になる技術やアイデアを数多く生み出したのだが、ビジネスとして成功させたのはゼロックスではなくアップルやマイクロソフトだったのである。

 これを「たとえビジネスとしては成功させることが出来なかったとしても、業界の人たちはGUIを発明したのはゼロックスの研究者だと知っているから良いのだ」という見方もあるかも知れないが、私は株式会社のありかたとしては間違っていると思う。せっかく自分の会社の研究者が発明したものをビジネスに結び付けられなかった当時のゼロックスの経営者は、株主に対する責任を果たしていないと思う。

 一介のエンジニアが言うならいざしらず、SCEの経営者である久多良木氏が、「Cell のSPEの数は、当面の製造コストよりも『美学』を優先して8個にしました」と堂々と言ってしまうところがすごいと思う。そのSCEが、「とにかく勝負に勝つこと最優先」という正反対のカルチャーを持つマイクロソフトと次世代ゲームマシン市場の覇権を目指して戦うのだから目が離せない。