「相転移」という言葉をビジネス用語として最初に使ったのが誰かは知らないが(ソニーの出井氏が好んで使っていたようだ)、理科系頭の私には妙にしっくりとする言葉だ。相転移とは、例えば、氷が0℃で水になる時(もしくは水が100℃で水蒸気になるとき)、それぞれの水分子間の関係が大きく変わり、今までの法則が成り立たなくなってしまう現象を指す。すなわち、氷がマイナス10℃からマイナス8℃に変化するときの法則(例えば温度の変化に応じた体積の変化)は、それを更にマイナス6℃に暖めたときにもそのまま通用するが、0℃を境に大きく法則が変わり、それまでの法則が通用しなくなるのである。
これをビジネスに当てはめると、環境の変化によってビジネスに相転移が起こると、今までの法則(常識・ノウハウ・セオリー)が当てはまらなくなり、従来のやり方でビジネスをしても勝つことができなくなってしまう状況を指す。こういった「ビジネスの相転移」に対処するのが難しい原因の一つは、古い常識の上で長年ビジネスをしてノウハウを蓄積してきた人にとって、それまでのノウハウを捨てて戦うことは、「明らかに間違った戦略に見える」ことである。トップがどんなに旗を振ったとしても、実行部隊が相転移の本質を真正面から捉えることができずに、過去のノウハウに頼った戦術に固執する呪縛に陥ると、相転移後の勝者になることができない。
例えば、ゲーム業界にとってのオンライン・ゲームがまさにその良い例である。従来型のゲーム端末においては、ゲームは必ずCDやカートリッジなどの「物販商品」として提供され、ゲームの状態(キャラクターのレベル)などはメモリー・カードなどに格納していた。そんなゲーム端末向けのゲーム作りにおいては、どのゲーム端末が売れるかを見極め(ハード)、その特定のゲーム端末のユーザー層を把握し(人)、そのユーザー層がどんなシナリオで遊ぶかを想定し(場所・時間)、そういった特定の「ハード・人・場所・時間」の組み合わせにマッチしたコンテンツ作りをしていれば良かった。既存のゲーム会社には、こういったもの作りのノウハウ・セオリーが蓄積しており、クリエーターたちの良し悪しもそれで決まった。
しかし、ゲーム端末がネットワークに繋がり、コンテンツがオンライン化して来ると、様相が大きく変わってくる。まず、ゲームの提供方法が、物販からオンライン販売に変わる。それも、単に「ダウンロード販売への変化」などという生易しいものではなく、「月額課金型のサービス・ビジネス」に変革する。それに加えて、ゲームの状態がメモリー・カードではなく、サーバー側に保持されるようになるのだが、それも単にメモリーの格納場所が移っただけでなく、ユーザーがログインしていてもしていなくともバーチャルな世界は24時間存在・変化し続ける点が大きく異なる。そしてコンテンツそのものも、クリエーター達が100%作りこんでからユーザーに提供するものではなく、ユーザーそのものが重要な一員となってバーチャルな世界を一緒に作っていくという点が、大きな革新である。
こうなると、今まで通りの「ハード・人・場所・時間」という座標軸で一元的に考えてきたノウハウなりセオリーが必ずしも通用しなくなる。端末は単に24時間変化し続けるバーチャルな世界とユーザーと繋ぐ「窓」でしかなく、特定のハードの持つ価値、ユーザーが使う時間・場所などの持つ意味も大きく変わってくる。バーチャル世界の作り方も、最初から全て作り込むパッケージ型のもの作りではなく、ユーザーの反応を見ながら、ユーザーに合わせて変更・作りこんでいくサービス型のもの作りに変更する必要がある。
こういった「相転移」がしばしば「勝ち組」企業にとって致命的なのは、「相転移」が一気には進まないために、「勝ち組」企業の中にいる人たちになかなか危機感が理解できない点である。ゲーム業界で言えば、オンライン化という「相転移」は既に始まっているものの、オフライン・ゲームの売り上げがいきなり落ち込んだり、今までのノウハウ・セオリーが突然通じなくなったりしないのである。それ故に、既存のビジネスで成功している人たちには、なかなか「相転移」の危機感が実感できないのである。
体の中でゆっくりと進行する病気と同じで、自覚症状が出たときには既に遅いのだが、自覚症状(=既存のビジネスの売り上げの落ち込み)が出るまではなかなかアクションがとれないのが人間の常でである。ソニーの出井氏が数年前からネットワーク対応の号令をかけていながら、結局のところソニーのどの部署もまともに対応できず、今になって「売り上げ・収益の落ち込み」、「音楽ダウンロードビジネスをアップルに持っていかれてしまう」という形の自覚症状となって現れたのが顕著な例である。古くからソニーのエレクトロニクス・ビジネスを支えていた人たちのとっては、出井氏の言葉は「机上の空論」としか写っていなかったのだろう。
かといって、あまりにも急激に舵をきると既存のビジネスからの収入が減ってしまうし、新しい市場への先行投資で見かけの利益率が悪くなる。「相転移」を乗り切るには、そのあたりの絶妙の舵取りが必要とされるところが難しいといえば難しいが、楽しいといえば楽しい。資金力を考えれば、「既存の勝ち組」が有利なはずなのだが、勝っているこそのジレンマが適切な舵取りを難しくする。ソニーやマイクロソフトの「既存の勝ち組」の企業の経営者が今後どう「舵取り」をしていくのか見ものである。