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理科系人間にも分かる「小泉改革の本質」

050831_094403_1   以前にも、「Ajaxの本質」などのエントリーを書いたことがあるが、エンジニアにとって、物事の本質をしっかりと把握して、絶対に必要なものとそうでないものを見極める力を付けることは非常に大切である。

 そこでその練習も含めて、小泉首相がやろうとしている構造改革の本質を私なりに解釈して、理科系人間の私にも納得できる形で解説してみようと思う。

 今の日本が抱える一番の問題は、財政赤字である。支出が税収を大きく上回る状況を何年も続けて来たため、国債という形の大量の借金を抱える悲惨な状況になっているのだ。誰が考えても、この「支出が税収を上回る状況」は早急に解消すべきなのだが、それがとても難しいのである。

 なぜ難しいかと言うと、それは政府の支出をコントロールする立場にいる政治家や官僚が、「支出を多くしたほうが自分自身が得をする」立場にいるためである。つまり、地方にどのくらいダムや道路を作ったら良いかを決める立場にある人達が、地方にダムや道路を作れば作るほど(つまり地方に金をバラ撒けばバラ撒くほど)、地元からの票が集められる、引退後の天下りポストが保障される、などの恩恵を受ける構造になっているのである。こんな構造になっていれば、政府の支出がどんどん増えていくのは当たり前である。

 そんな政治家や役人の行動を、「それは彼らのモラルが低いからだ」と批判するのは簡単だが、とんだ勘違いである。私も含め、世の中の99.9%の人間は、お金を使えば使うほど自分が得をする環境に置かれれば、お金を使うに決まっている。人間とは元来そういうものだ。そんな状態に彼らを置いてしまっている構造そのものに根本的な欠陥があるのである。つまり、これはモラルの問題ではなく、インセンティブ(動機付け)の問題なのである。

 この問題の正しい解決方法は、その構造そのものを壊してしまうこと(=構造改革)にあるのだが、それがまた難しいのである。なぜなら、そういった構造を決める立場にいる政治家の多くが、同時に今の構造から多くの恩恵を受ける立場にあるからである。彼らとしては、構造改革をすることイコールその恩恵を失うこと、なので、当然のように構造改革に反対する抵抗勢力となるのである。

 悲観論者は、「そんな状況では決して日本の国はまともにならないじゃないか」と嘆くかも知れないが、必ずしもそうではない。我々有権者には、『票』という武器がある。この武器を最大限に生かして、抵抗勢力を国会から追い出し、自分自身の目先の利益を犠牲にしてでも構造改革を進めてくれると信じるに値する政治家に票を投じれば良いのである。

 小泉首相は、自分こそそんな政治家であり、郵政民営化という踏み絵を使って抵抗勢力を追い出した自民党に票を投じて欲しいと主張しているのである。小泉首相を信じるも信じないも、我々有権者の自由であるが、彼のこの問題に関する立場が10年前から一環している点は評価に値する。後は、我々有権者が、小泉首相に本当の構造改革を起こすだけのリーダーシップがあると判断するかどうかである。

[参考文献]
小泉内閣総理大臣記者会見、衆議院解散を受けて
郵政民営化をわかりやすく理解するために
なぜ、郵政公社を民営化するべきなのか?
自民党の政治システムと郵政民営化と小泉純一郎
米国政府の「年次改革要望書」を読む
ぐっちーさんの金持ちまっしぐら、心理戦


米国の貿易赤字に関する素朴な疑問

Microsoft  根っからの理科系人間の私が、何を間違ったかベンチャーキャピタル(ベンチャー企業を対象とした投資会社)にパートナーとして参加したり米国で起業したりするものだから、否応なしに金融だとか経済のことを勉強するハメになった。幸いなことに、最近の経済学は統計学などを駆使した数理経済学となっているため、数字に強い理科系人間であることが大いに役立っている(ちなみに、日本の大学の経済学部は相変わらず「文科系」扱いで入試に数学が必要ないために、数理経済が理解できない学生が沢山いるっていう噂は本当なのだろうか?)。

 そんな私の数年前からの疑問は、「米国が毎年莫大な貿易赤字を出しているのに、なぜドルの値段はどんどん下がっていかないのか?」である。「それは日本が米国の国債を買ってあげているからだよ(日銀の米債買い支え説)」、「アメリカ政府はドル紙幣をどんどん印刷しているからだよ(ドル紙幣印刷説)」、「アメリカ人は借金して買い物をしているからだよ(アメリカ人の過剰消費説)」などの発言も聞いたことがあるが、どうも私には納得出来ない。世界の金融市場は、そんなデタラメを許すほど甘くは無いはずだ。

 それよりも、数年前に新聞で目にした「米国の貿易赤字が莫大だと言っても、為替相場で売買されるドルの一日分にも満たない」という情報の方が私の頭にずっと引っかかっている。貿易以外の目的で(つまり投資や投機のために)売買されるドルの金額がずっと大きく、ドルの相場はそっちの影響で決まる、という説だ。つまり、貿易赤字の結果外国に流れ出たドルは、投資もしくは投機目的で米国に還流しているということだ。もちろん、短期の利ざや稼ぎのために投機的に買われたドルは結局売られる運命にあるので、実際には米国の株式や国債への長期的な投資の形で還流していると考えるべきであろう。

 そこで、理科系人間としては、この状況を以下のように単純化したモデルに置き換えて説明してみる。

前提1.世界には米国と日本という二つの国しか無い。
前提2.米国にはソフトウェアエンジニアしかいなくて、全員マイクロソフトで働いており、もっぱら輸出用のソフトウェア(ウィンドウズ)を作っている。
前提3.日本はソフトウェア以外の全てのもの(食料、衣料、家具、など)を生産している。

 ある年のマイクロソフトの日本での税引き後の利益が100億円だったとする。その場合、100億円のお金が日本から米国に流れることになる。もしそのお金が、給料や配当の形でマイクロソフトの株主や社員に全て配られ、彼らがそのお金だけを使って生活する(つまり日本から物を買う)とすれば、米国から日本へのお金の流れは決して100億円を超えることが無いので、米国の貿易は黒字にこそなれ、決して赤字にはならない。

 しかし、もし彼らが、将来の収入を当てにして、銀行などから借金をして買い物をし始めれば、100億円以上の金が日本に流れることになり、米国の貿易勘定は赤字となる。これが、『アメリカ人の過剰消費説』である。この場合、不足となるドルは、米国の銀行が連邦銀行もしくは日本の銀行から借りることになるが、その借金もいつかは返さなければならないので、これで数十年も続く貿易赤字が説明出来るとは、私にもどうしても思えない。

 そこで、投資によるお金の流れを勘定に入れるために、マイクロソフトが米国で株式を上場させたとしよう。その場合、年間の税引き後売り上げ100億円に今のPE(約25)を当てはめると、時価総額2500億円で株が取引されることになる。仮にその年に、マイクロソフトの創業者や従業員が、持ち株の10%、つまり250億円の株を株式市場で売り、それを全て日本人が買ったと仮定してみる。つまり、250億円分のお金が日本から米国に流れる(つまり、ドルが買われる)ことになるのである。

 当然、株の売却による売買益を得たマイクロソフトの創業者や社員達は、その利益を満喫するために、給料だけでは住めないような豪華な家に住んだり、高級車やヨットを買い、そのお金は全て日本に流れることになる。仮に、そうやって使われるお金の総額が基本的な生活必需品の購入も含めて200億円だったすると、トータルの勘定は、

1.ウィンドウズの日本での販売による税引き後利益、100億円 (お金の流れは、日本→米国)
2.マイクロソフトの株への投資、250億円 (日本→米国)
3.マイクロソフト社員の日用品と贅沢品の輸入、200億円 (米国→日本)

となる。この場合、米国の貿易は、(1)-(3)で、100億円の赤字となる。しかし、株式市場への投資によるお金の流れを見ると、(1)-(3)+(2)で、150億円だけ日本から米国へお金が流れて(ドルが買われて)いることになる(厳密には、株主への配当による米国から日本へのお金の流れも生じるが、100億円の利益を全て配当として分配したとしても、その10%の10億円しか流れないので、その分は影響は小さい)。つまり、100億円の貿易赤字に関わらず、ドル相場は上がって行く(つまり、円安に推移する)ことになる。

 分かりやすく言い換えれば、マイクロソフト、スターバックス、グーグルの様に世界規模でビジネスをする企業が米国の株式市場で株を公開し、そこに世界中の投資家の資金が集まり、その結果として米国の投資家、創業者、社員が得たキャピタルゲインが「海外から日用品や贅沢品を買う」という形で海外に流出すると、その分だけ米国の貿易が赤字となるのである。もしこれだけが米国の貿易赤字の原因であれば、「そんな形で発生している貿易赤字なら全然問題無いし、米国に同情する必要もないじゃん」と言うのが私の素直な感想である。

 もちろん、実際の経済はこのモデルのように単純ではなく、外国人の米国株への投資に加え、日銀による米国国債の購入(毎年どのくらい買っているのだろう?)、アメリカ人の過剰消費(これは結構本当)、などさまざまな要因が重なりあった結果、今のドルの相場が維持されているのであろう。それぞれの要因がどのくらいの割合で寄与しているのかぜひ知りたいところだが、さすがにそんな数値を手に入れるのは容易ではない(どなたか良い資料を知っている人がいたらぜひとも教えていただきたい)。

 私は経済学者でも金融の専門化でもないので、どこかで何かを大きな勘違いや見逃しをしているかも知れないが、これが私なりに到達した「毎年莫大な貿易赤字を出しながら、なぜドルの値段はどんどん下がっていかないのか?」という疑問に対する「経済うんちく」である。もし、このブログを読んでいる人で、国際経済学に詳しい人がいれば、ぜひとも私のうんちくに対するフィードバックをいただきたい。ネガティブなものでもポジティブなものでも大歓迎である。


米国政府の「年次改革要望書」を読む

Haibis 今回の選挙は、日本の「今後の政治のありかたを決める」とても重要な選挙であるが、どの政党を支持するか決めるのはとても難しい。私自身、小泉首相のめざす「小さな政府」構想には大賛成なのだが、なかなな進まない構造改革や増え続ける財政赤字を見ると、「小泉首相に日本を任せてしまって大丈夫か?」という不安も募る。

 しかし、日本のテレビや新聞を読んでいても、「小泉首相の刺客作戦」、「衆院解散は予定通りの行動」などといった、「政治活動」にばかり焦点を置いた記事ばかりで、「なぜ郵政の民営化が必要か?」、「小さな政府と福祉は両立するのか?」などの本質的な「政策」の議論がほとんどされていないので、あまり役に立たない。

 そこで早起きした日曜日の午前中を利用して少し勉強しようと、去年の秋に米国政府から提出された「年次改革要望書」を読むことにした。「年次改革要望書」は、日米双方の政府が、毎年、それぞれの国の企業が相手の国でビジネスをする場合の障壁になっている問題点を指摘し合い、相互に「市場開放」を進めようというために交換される文書である。米国から日本への要望書は、米国政府のサイトで原文が翻訳と共にが公開されている。

 この中で特に今回の選挙と関係があるは、「Privatization (民営化)」のセクションで、そこには郵政の民営化に関して、アメリカ政府としての要望がはっきりと書かれている。ここを読むと、アメリカ政府がどんなことを日本政府に要求しているのか、そしてなぜそんな要求をしてくるのかがはっきりと見えてくる。例えば、

II-A-1-a. 郵便保険と郵便貯金事業に、民間企業と同様の法律、規制、納税条件、責任準備金条件、基準、および規制監督を適用すること。

II-A-1-b. 特に郵便保険と郵便貯金事業の政府保有株式の完全売却が完了するまでの間、新規の郵便保険と郵便貯金商品に暗黙の政府保証があるかのような認識が国民に生じないよう、十分な方策を取る。

を読むと、米国政府は米国資本の銀行や証券会社から、「郵便局の貯金業務が法律や税制の面で優遇を受けすぎており、かつ、日本国民が『郵便貯金は政府がバックにいるから100%安全だ』と思っているため公平な競争が阻害されている、なんとかしてくれ」というリクエストを受けていることが分かる。米国政府としては日本政府に郵政を民営化してもらうことにより、郵便貯金として眠っている莫大なお金を、米国資本の銀行に預金したり、米国資本の証券会社の販売する株式ファンドなどに投資して欲しいと考えているのである。

 郵便業務に関しての要望は、

II-B. 宅配便サービス 日本郵政公社と宅配便業者間の公正な競争を促進するため、米国政府は日本国政府に対して、下記の方策を取ることを要望する。

II-B-1. 独立した規制機関 郵便業務に関する規制当局は日本郵政公社から完全に切り離されかつ独立した機関であることを確実にし、日本郵政公社あるいは公社の管轄下にあるどのような組織であれ、非競争的な方法で事業を展開しないことを確保するための十分な権限を持てるようにする。

II-B-2. 非差別的な処遇 税金や他の料金免除など競争条件を変更するような特別な便益や、物品の運送に関して政府機関による特別な取り扱いや、関税業務にかかるコストの免除などが、政府政策により競争サービスのあるひとつの提供者のみに与えられないことを必要に応じて確実にする。

であるが、これも「宅配便」という日本語訳が原文では「Express Delivery Carriers」となっていることに注目すれば、主にビジネス向けの速配サービスを提供している Federal Express と DHL が、「税金・制度面で優遇され、かつ郵便貯金業務により資金面で立場が不当なまでに有利な郵便局の郵便業務があるために自由競争が阻害され、自分達の日本でのビジネスが思うように展開できていない」、と感じているのだということが分かる。郵便業務がきちんとした形で民営化されれば、全国各地の郵便局で Federal Express の窓口業務をしてもらう、だとか、海外郵便のビジネスはリストラさせて全て DHL にアウトソースしてしてもらう、など可能性もゼロでは無くなる。

 市場開放という観点から見れば米国政府の言っていることはもっともな『正論』であり、小泉首相のめざす「小さな政府」構想ともピッタリと一致する。しかし、ここまで詳細に渡って書かれた要望書を見てしまうと、「内政干渉だ」とか、「小泉首相は米国の手先だ」と怒る人の気持ちも分かる。

 こう考えて見ると、問題の本質は、「米国が全世界で行おうとしている『グローバリゼーション』の波に乗り、日本の市場を開放することにより日本の企業を世界に通用する企業に育てる」という市場開放戦略を採るか、「米国の言う『グローバリゼーション』の波には安易に乗らずに、国内の企業を外資系の企業から保護しつつ、『日本なりの資本主義』の正しいありかたを見つける」という保護主義戦略を採るか、の二択にあるように私には思える。

 前者は短期的にははげしい痛み(倒産、失業、外資系企業の日本市場での躍進)を伴うが、米国を中心とした自由主義経済圏で通用しないビジネスの仕方をしている日本の企業をいち早く淘汰し、世界に通用する日本の企業を育てる、という意味では近道である。絡み合う利権でがんじがらめになってしまった日本の行政を建て直す特効薬になる可能性もある。後者は、経済的に自立した国の政府の方針としては一つの選択肢としては十分ありうるものだが、米国経済に「おんぶにだっこ」状態の日本に、米国の勧めるグローバリゼーションとは真っ向から対立するようなことはそもそもできない。つまり、後者は、「米国の顔色をうかがいながら、『建前は市場開放、実質は保護主義』という日本的な中途半端な状態を続けて行きつつ、財政を建て直す方法を模索してみる」というごく日本的な中庸路線とならざる終えない。

 この辺りのことを全て踏まえた上で、思い切った『市場開放戦略』を採用し、同時にそれをショック療法として利用して『利権の壁』をぶち壊して『小さな政府』を実現することにより財政赤字を立て直す、という戦略をとるしかない、という結論に小泉首相が至っているのだとしたら、それはそれとして筋の通った戦略ではある。ただし、それには大きな痛みも伴うし、外資系の企業に日本の経済を一気に牛耳られてしまうかも知れない、という大きなリスクも伴うので、その戦略を指示するもしないも、国民の自由である。今まで通りの、「米国の顔色をうかがいながら、『建前は市場開放、実質は保護主義』」という日本的な中途半端な状態を続けて行きつつ、「米国で激しく怒ったらそこだけはちょっと開放する」という戦略を指示するのも、もちろん自由である。

 我々有権者としては、小泉首相が刺客として魅力的な『客寄せパンダ』を連れて来たかどうかで投票先を決めるのではなく、小泉首相が主張する「小さな政府」の意味や、「米国の推し進めるグローバリゼーションの波に乗ること」のメリットとデメリットを良く理解した上で、彼の戦略を指示するかしないかで、投票先を決めるべきである。

[追記] これだけだと片手落ちなので、続編として小泉首相が何を目指しているの私なりの解釈を書きましたので、そちらもご覧下さい。

[追記2] ちなみに、この「年次改革要望書」の存在を知ったのは、少し前に読んだ「拒否できない日本」という本のおかげ。良く見かける何でもかんでもアメリカ人の陰謀にしてしまういいかげんなゴシップ本とは一線を引く良書である。


Widget 版「箱入り娘」プレゼント

Dashboard_1 アップルが Tiger OS のアナウンスメントをしたときから、Dashboard の Widge として、携帯電話用に UIEngine 上に作ったアプリがそのまま使えるのではないか、という声は社内にはあった。UIEngine は Java Applet 版がそのまま流用できるし(Windows と違って Mac には最初から Java VM がインストールされてある)、携帯電話の画面サイズに作られたミニアプリは Widget として最適なはずだ。

 Dashboard の作り方を勉強して手作りで作っても良かったのだが、担当のエンジニアに頼んで開発ツールからボタン一つで Widget が作れるようにしてもらった。一つのソースコードから携帯電話のアプリとDashboard のWidget の両方がボタン一つで同時に作れてしまうという開発環境を作ることに、すごくこだわりたかったのだ(私の知る限り世界初^^)。

 先週、その開発環境のアルファ版が完成したので、さっそくそれを使って作ったのが、「箱入り娘」のWidget版である。既にこのブログのミニアプリとして Java Applet 版の UIEngine 下での動作確認が出来ていたので、動くことは当たり前なのだが、Mac 上で Widget として走らせると、何とも新鮮である。もし、ブログの読者で Mac をお持ちの人がいたら、ぜひとも下のリンクからダウンロードして遊んでいただきたい。もちろん無料である。

 「箱入り娘 Widget 版ダウンロード

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この widget は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

 ちなみに、一つ感動したのが、アップルが(マイクロソフトと違って)PNGのアルファ値をきちんとサポートしていること。これのおかげで、Widget のフレームを半透明にしたり、フレームに影をつけたりすることなどがとても簡単にできるのだ。「こういった細かな所にきちんと気を使って作ってあるところが、Mac の魅力なんだな」、と妙に感心してしまった私である。


「アメリカの大学で勉強したかった」と思った日

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 今日は息子の大学の「Parent Orientation」の日。日本の大学で言う「入学式」に相当するもので、今年の9月から freshman (=一年生)として入ってくる生徒の父兄を招待して、学校の見学、ランチ、学校側からの祝辞と挨拶、小グループに分かれての質疑応答、ディナーパーティ、という一日がかりのイベントである。

 息子と一緒に各地の大学を見てまわった時にも感じたことだが、今日は一層強く、「アメリカの大学で勉強したかった」と思った。教育システムから環境までが大きく違うのである。私の母校には申し訳ないが、特に日本のマンモス校と米国の小規模なリベラルアーツ(一般教養)の大学を比べると、その差が際立つ。

 日本ではあまり知られていないが、アメリカで「医者」や「弁護士」になるためには、まずリベラルアーツの学校に行き、4年間みっちりと勉強する必要がある(日本の大学のように、バイトや同好会活動の片手間に卒業できるようなものではない)。そして、その4年間でさらにトップクラスの成績を修めた生徒だけが、医者になるための medical school や、弁護士になるための law school (どちらも大学院)に行けるのである。中学・高校と親の言うなりに塾や予備校に行かされて、「一発勝負」で医大に合格してしまったり、弁護士になる気もないのに「なんとなく」法学部に行ってしまう日本の学生とは大違いである。

 もちろん、リベラルアーツは一般教養なので、卒業後にマーケティングだとかファイナンスの仕事に就く学生もいれば、4~5年働いた後にMBAを取得するために別の大学に行く人も多い。この大学の場合でも、卒業生の半分以上は卒業後6~7年以内に修士号を取得するそうである。

 ちなみにこの手の小規模なリベラルアーツの大学の環境がどのくらい恵まれているかを、この大学を例にしてデータで示すと以下の様になる。

  • 一学年の生徒数は約300人
  • 生徒と先生の人数比は8対1
  • 平均的なクラスのサイズは16人
  • 先生の97%は博士号の所有者
  • 卒業生の21%がそのまま修士課程に進む
  • 週に4日、政治やビジネスの著名人を招待してディナーパーティの開催

 今の日本には、極度にゆがんだ受験システムのおかげで、「大学に何をしに来たのか」、「卒業したらどんな職業に就きたいのか」全く分からない大学生が増えていると聞く。そんな状態のまま、ろくに勉強もせずに大学3年生の時から(景気の良さそうな業種から適当に企業を選んで)就職活動をしているようでは、「自分の才能を最大限に生かした、人生を楽しめる仕事」に就ける可能性は低くて当然だ。

 もしこのブログを読んでいる学生で、自分が上に書いたような状態にあると感じているなら、思い切ってアメリカのリベラルアーツの学校に編入することを考えてみるのも良いかも知れない。当然楽な道ではないし、少し遠回りになるだろうが、「自分が本当に楽しめる仕事を見つける」、ためだったら少しぐらいの努力や遠回りは惜しむべきではないはずだ。終身雇用制が崩壊しつつあり、高度経済成長期の常識が通じなくなりつつある今の日本において、「どの会社に入れば安定した人生を送れるか」という消極的な考え方ではなく、「どんな仕事がしたいか」、「どんな才能が自分にあるか」を良く見極めて仕事を選ぶべきである。

 日本の大学であれ、アメリカの大学であれ、大学というのはその「見極め」をするためのとても大切な時期だ、ということを心して大学生活をエンジョイして欲しい、というのが大学に入学したての息子への父からのメッセージである。


ブログ用バナー素材プレゼント(アフリカ編)

 昨日のエントリーでも書いたが、せっかく作ったブログ用のバナーがうまく使えなくて悔しい。しかし、せっかく用意した幾つかのバナー様の素材を「お蔵」にしてしまうのはあまりにももったいないので、このブログの読者にプレゼントすることにした(誰も欲しくないかも知れないが^^;)。

 下のサムネイルをクリックすると、640x120ドットの大きさの画像が開くので、それを "Save Picture As..." などのコマンドを使って自分のパソコンにダウンロードしてから自由に使っていただきたい。

 ちょうど著作権関連の考え方の勉強にもなるので、この手の著作物をブログなどで無償配布する際のライセンス方法として、少し前から気になっていた「クリエイティブコモンズ」にのっとって配布することにした。なんらかの形で、このエントリーに対してリンクを張って原著作者(=私)を明確にし、トラックバックをいただければ、自由に使っていただいて結構である。二次加工もOKである。

 ちなみに、この「クリエイティブコモンズ」という考え方は、「シェアウェア」とか「フリー画像」などを配布する場合に時々問題となる「どこまでの範囲で自由に使ってよいのか、二次著作物を認めるのか」などを明確にするための手法として作り出された考え方で、ソフトウェアであれ画像であれ、自分の著作物をウェブを通して無料配布しているような人は一度は理解しておくと良い考え方である(クリエイティブコモンズジャパンというサイトも一応はあるが、全てを網羅しているわけではないようなので注意。一番分かりやすいのは解説ビデオだが、残念ながら英語版しかないようだ。英語の勉強だと思って何度か見てみるのも良いかも知れない。)。その意味で言えばブログの文章も無料配布している著作物であり、その二次配布や二次加工をどこまで認めるかは、本来ならばクリエイティブコモンズの手法などを使って明確化すべきことである。

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
上の画像は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。


幻の夕焼けバナー

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 そろそろこのブログのデザインにも飽きてきたので、「タイトルの部分に格好の良い写真でも入れよう!」と奮起したのが先週末のことである。持っている写真の中から出来の良いものを候補として幾つか選び、その中でタイトルに使えそうなもを覚えたての Photoshop で加工して作ったのが上のバナーである(クリックすると大きくなる)。

 Photoshop 初心者の私としてはなかなかの出来だ、と自分でも満足していたのだが、いざこのブログにはめ込んでみると、他の部分の色と全然マッチしないのだ。そこでそっちを変更し始めたのだが、なかなかうまく行かない。イメージとしては、夕焼けを基調に、人生の楽しさを訴えるような色合いに仕上げたかったのだが、どうやっても「サイケデリックなアフリカン」になってしまう。写真を引き立てる色を選ぶという作業は、以外と難しいようだ。ウェブデザイナーという職業が存在する意義を身を持って再認識したしだいである。

 結局、このバナーは没にすることにしたのだが、せっかく作ったものを誰にも見せないのは悔しいので、ここで公開することにした。ひょっとしたら、このブログを見ているデザイナーの人たちから良い案が寄せられる、という可能性もゼロではない。

 ちなみに、素材の写真は数年前にアフリカに家族で旅行した時にとった夕焼け。アフリカの夕焼けは本当に美しかった。初めての一眼レフを手に、にわかカメラマンとなって、撮影しまくった写真の一つである。

 このアフリカ旅行は、マイクロソフトに長く勤めていたご褒美にもらったサバティカルという特殊な有給休暇(8週間)を利用して行ったのだが、一つだけ大失敗をしてしまった。偶然にも Internet Explorer 3.0 のリリースの時期とピッタリと重なってしまったのだ。用心のために4ヶ月ほど余裕を持って計画を立てていたのだが、リリース時期がきっちり4ヶ月ずれたのだ。前々から準備していたこともあったし、子供達の夏休みは外せなかったので、「ごめん!」とエンジニア仲間に頭を下げて出かけてしまったのである。

 アフリカ旅行から戻って見ると、きちんとリリースされてたのは良いが、タイトルバックにイタズラをされてしまった。私の名前が開発者リストから外されており、タイトルバックの最後に、「リリースの大切な時にサボった Satoshi」と紹介されてしまったのだ。この強烈なジョークのおかげで、チームのメンバーの誰もが私のことを笑いものにするものだから、気まずさもなく復帰できて逆に助かったのを覚えている。


タイトーと言えば…、26年ごしの懺悔

050823_113933 今日は私の会社でも、「スクエニによるタイトーの買収」のアナウンスメントで盛り上がった。私の世代にとっては、タイトーといえば、その「スペースインベーダー」で日本中の喫茶店のテーブルをあっという間に埋め尽くし、「普通の人がゲームをする」時代を作り出したパイオニアであり、そのイメージが今だに強く残っている。

 スペースインベーダーと言えば思い出すのが、パソコン黎明期(1979年)にNECから日本最初のパソコンPC-8001が発売された時のある出来事である。アスキーにバイト君として日夜出入りしていた大学生の私と私の相棒に、ある日突然指令が来たのである。

「NECからPC-8001という日本で最初のパソコンが発売することになった。そこで巻頭カラーで大々的に記事を書くという名目で一台何とか借りてきた。何か記事にできそうな見栄えの良いものを作ってくれ。」

 新しい物好きの私は真っ先に飛びつき、マニュアルを見ながら色々と遊び始める。それまで主に触っていたのが自分で半田付けして作ったTK-80(これもNEC製)だったので、「きちんとケースに入ったパソコン」というだけで感動である。遊んでいるうちに、どうやって線を描けば良いかなどがだんだん分かってきたが、締め切りは刻々と迫ってくる。「見栄えの良い」ものと言われても、何を作れば良いのだろう。私と相棒は悩んでいた。

 締め切りも二、三日後に迫った時、どちらからともなく、「マシンの紹介記事なんだから動かなくてもいいじゃん。画面だけ作っちゃおうぜ」という悪魔のささやきが漏れる。そこで早速簡単なビットマップエディターのようなものを作り、それでまず作ったのがスペースインベーダーの画面。完全なでっち上げである。もちろん、タイトーの許可なんか採っていない(このころはソフトウェアのコピーライトの概念が全く確立していなかった)。「次は3次元バスケットボールだ!」、「3次元ゴルフだ!」とひたすら画像だけを捏造するバイト君二人。画像を作るだけなので、そのパソコンに3次元画像を処理する能力があるかどうかなんか気にする必要もなく、サクサクと作れる。何だかんだと8つほどのゲームの『捏造画像』を作り上げ、編集長に持っていくと大喜び。「早速遊ばせてくれ」と言われるが、「全部、ただの画像です」と白状するしかない。

 しかし、編集長は、「遊べないのか、残念だな。でもこれで記事には十分。良くやった。」と褒めてくれる。大物である。結局、編集長は、僕らバイト君が捏造したゲームの画面写真を「画像はイメージです」の一言も加えずに巻頭カラー記事にしてしまった(ちなみに、右ページの頭は私の頭)。NECの担当者にはどうやって説明したのか、今でも謎である。

 その記事の反響はとても大きく、PC-8001を買った読者から、「PC-8001向けのスペースインベーダーはいつ発売するんだ」という問い合わせがアスキーに沢山来たという。パソコンの黎明期だからこそ許された、今なら「やらせ」もしくは「ベイパーウェア」と批判されそうな歴史の一コマである。しかし、それに刺激されて本当に動くスペースインベーダーを作って投稿してきた読者もいたし、この記事がPC-8001の売り上げ(つまりパソコンの普及)に大きく貢献したとも言われているし、こういう「目に見える形で未来を提示」したのには、それなりの意味があったと今では思っている。

 考えて見れば、あれをキッカケにプロトタイプ作りが大好きになったのかも知れない。90年にSmallTalkで作ったプロトタイプのデスクトップをマイクロソフトのPDCで「次世代OSのユーザーインターフェイス」としてデモしたのも私だし(結局、Windows 95 の形でリリースできるまで5年もかかってしまったが)、CEOになった今でも相変わらずUIEngineの上でプロトタイプやサンプルプログラムを日々作っているのも私である。私のプロトタイプを見て一人でも多くの人が「ユビキタスなデバイスとウェブサービスを組み合わせるとこんなことが出来るんだ」と刺激を受けてくれればいい、と相変わらずの楽天的な動機でプログラムを書き続ける毎日である。


半田ごての青春

050813_120357 ある夫婦の散歩中の会話。

「しかしうちの息子たちも、ヒップポップダンスにバンドに彼女にボクシングと大忙しだね」

「いかにも青春って感じね。私は水泳ばっかりだったけど、あなたは?」

「俺か?うーん、何かな?半田ごて、かな。」

「半田ごて?!」

「パソコン、基板から自作してたし。でも半田ごてだけじゃなくて、化学実験とか、プログラミングとか、数式を解くとかもしてたよ…」

「やっぱり、『半田ごて』はインパクト強いわ」

「そうか、俺の青春って『半田ごて』だったんだ!(と空を指差す)」

「(一歩離れて)あたしって、なんて人と結婚しちゃったんだろう…」

(これはあくまでフィクションです。登場する人物はすべて架空の人物で、このブログの筆者やその妻とは一切関係がありません)


ファミリーフォト

Family_photo  アメリカ人の家に行くと、廊下に家族の写真がずらずらと飾ってあるのを良く見る。それも、旅行中の写真とかよりも、明らかにスタジオでわざわざ撮影したらしきものが大部分だったりする。子供の入学式とか卒業式に合わせて、家族写真(=ファミリーフォト)を近所のスタジオに撮りに行くのだ。日本でいう「七五三の写真」と似たようなものだが、もう少し気軽に撮りに行っているようだ。

 我が家も、今年の9月から長男がカルフォルニアの大学に行ってしまうので、この習慣にならってファミリーフォトを撮ってもらうことにした。予約していた時間にスタジオに行くと、まず50ドル(約5000円)払ってフォトグラファーの時間を30分確保する。その時間を利用して、色々なポーズで沢山写真を撮ってもらうのだ。フォトグラファーの言うなりのポーズでも良いし、自分達で好きなポーズを決めても良い。

 撮影後10分ぐらい待つと、カラープリンターにわざと解像度を落として印刷したプルーフ(proof)と呼ばれる紙を渡される(オリジナルのデジタルデータは決してもらえない)。それを家に持って返って、どの写真を「買う」かを決めるのである。なかなか巧みなビジネスモデルだ。

 オーダーする写真の枚数にもよるが、ここからさらに150ドルから300ドル(約15000円から30000円)が必要となるのである。もちろん、撮ってもらった写真が気に入らない場合は、一枚も買う必要は無い。こだわる人なら、別のフォトグラファーを指名して、もう30分撮影してもらうことも可能である(さらに50ドル必要)。

 この仕組みだと、腕の良いフォトグラファーの方が自然と売り上げが高くなる、という良い意味での競争が起こるのである。その分、フォトグラファーも真剣で、出来るだけ沢山焼き増してもらえるように頑張るのである。日本では結婚式の時にスタジオで写真を撮ってもらった覚えがあるが、だいぶシステムが違ったように記憶している。