あえて断定せずに説得力を増すテクニック
2006.07.13
少し前のエントリーで紹介した、「The ten faces of innovation」。内容とは直接関係がないが、興味深い文章術が使われていたので、今日はそれに関するエントリー。
まずは、下の文章を読んでいただきたい。
一昔前まで、Cleaveland Indiansは「弱小球団」の代名詞であった。地区優勝をしたことが無いばかりか、勝率が5割を上回ることすらめったになかった。しかし、1994年にIndiansは大きく変わったのである。1994年はリーグで一番の勝率をかせぎ(ただしストライキのためにシーズンは途中で終了)、1995年には念願のリーグ優勝を果たした。
何が変わったのだろう。監督も同じ、選手もほぼ同じメンバーである。一つだけ変わったものは球場である。都心から離れた所にある収容人数8万人の巨大で古びた球場から、都心にある収容人数4万人の新しい球場に移ったのである。
つまり、Indiansは球場を移るだけで「弱小球団」から「最強球団」へと変身をとげたのである。こう考えると、オフィスの環境を大きく変えるだけで社員の気分をリフレッシュしてやる気を出してもらうことも可能かも知れない。社員の「やる気」の低下に悩む経営者の皆さん、オフィスの模様替えをしてみませんか?
どうだろう。下線をした「つまり、…」の部分で「そんなわけないだろう」というツッコミを入れたくなってしまった人が多いのではないだろうか。
そこで、表現を少しだけ変えてみたので、今度はこれを読んでいただきたい。
(…略…)
何が変わったのだろう。監督も同じ、選手もほぼ同じメンバーである。一つだけ変わったものは球場である。都心から離れた所にある8万人もの観客を収容できる巨大で古びた球場から、都心にある収容人数4万人の新しい球場に移ったのである。
もし、Indiansが球場を移るだけで「弱小球団」から「最強球団」へと変身をとげることに成功したのであれば、オフィスの環境を大きく変えるだけで社員の気分をリフレッシュしてやる気を出してもらうことも可能かも知れない。社員の「やる気」の低下に悩む経営者の皆さん、オフィスの模様替えをしてみませんか?
違いは下線の部分のみである。前者は「Indiansは球場を移るだけで『弱小球団』から『最強球団』へと変身をとげた」ことが事実だ、と断定した上で、「だから、オフィス環境を変えるのも良いかも知れない」と述べている。それに対して、後者はその部分の断定はあえて避け、「もし…であれば、オフィス環境を変えるのも良いかも知れない」と述べている。数学的に言えば、前者は「Aは真。だからBも真(かも知れない)」であり、後者は「もしAが真ならばBも真(かも知れない)」である。
「Aは真」が読者の誰にでも受け入れられるようなものであるならばどちらの言い方でもかまわないが、上の例のように「Aは真」と断定してしまうのが少し強引すぎる場合には前者の言い方は好ましくない。「Aは真」と断定した時点で読者の意識がそこに集中してしまい、本当に伝えたい「Bも真かも知れない」というメッセージが伝わりにくくなるのである。それに加えて、「Aは真」と断定してしまう筆者に対する不信感まで生まれてしまい、そこに続く「Bも真かも知れない」というメッセージの信頼性までも失われてしまうのだ。
これに対して「もしAが真ならばBも真かも知れない」という言い方は、「Aは真」とあえて一言も断言しないことにより、読者の意識が「Aが真かどうか」に集中してしまうことを避け、「Bも真かも知れない」という一番伝えたいメッセージを言葉をはるかに受け入れやすいものにしているのだ。
はじめまして。中島さんの人気エントリ「日本語とオブジェクト指向」が大好き!です。以来我が家では「すみません、それはお塩ですか?」が大うけしております^^「あえて断定せずに。。。」はそれに続く大ヒットになりそうです。中島さんらしいセンスあふれるブログ、これからも楽しみにしています。
Posted by: fuji | 2006.07.12 at 08:45
たしかに後者の表現の方が一見説得力が増したように見えますね。
しかし,これはフェアでない書き方の代表例です。根拠が薄弱であるため「Indiansは球場を移るだけで強くなった」と正面から述べることはできない。しかし読み手にはそう思わせたい。そこで上記主張の真偽をあえて「ごまかす」ことによって読み手を暗示にかけようとする文章です。
一部マスコミの文章にはこの手法がよく使われますね。例えば,根拠をほとんど示していないにも関わらず「もし,小泉政権の政策が格差社会を招いたとすれば,その責任は首相本人が負うべきであろう」などと述べる場合です。
暗示の手法を用いた文章は批判精神の乏しい読み手には強い影響力があるので,危険でもあります。マーケティングの観点からは有効なのでしょう。しかし,フェアではありません。
Posted by: atsushi | 2006.07.12 at 09:55
(Typepadが不調で少しの間コメントが返せませんでした。やっと復活したようなので返事を書きます)
atsushiさん、鋭いご指摘ですね。「フェアでない」という呼び方が適切かどうかはケース・バイ・ケースだと思いますが、確かに「まずはAが真であることを読者に納得させてから」という労力を省いているという意味で、「フェアでない」と言いたくなる気持ちは分かります。しかし、人を説得しようとするときに、このように類似したケースをあげてから本題に移ろうとしても、その類似したケース側の議論に陥ってしまって、本題にちゃんと眼を向けてもらえないことがしばしばあります。そんな時にこのテクニックを意識すれば、聞き手の意識をちゃんと本題に向けてもらえるわけです。
当然、この手のテクニックを「人を騙す」ために使えばそれはフェアではないわけで、そこは使う側の良心の問題です。使う側に立つにせよ、使われる側に立つにせよ、こんなテクニックが存在することを知っておくことは役にたつと思います。
Posted by: satoshi | 2006.07.13 at 14:56
atsushiさんのコメントに対して。
「もしA⇒A’が真なら、B⇒B’もまた真(かもしれない)」は、別にアンフェアな言い方ではないと思います。素直に読めば、A⇒A’が真であることを思わせたいという意図は感じられません。論点はA、A’ではなく、それと並行な論理がB,B’になりたつ(かもしれない)ということを言いたい、すなわち、A⇒A’の真偽はともかくとして、もしA⇒A’がなりたつならば、Bの世界にもB⇒B’の並行論理が適用できるかもね、ということを示唆していると読めます。
さらに、atsushiさんの例はこのロジックとは全く異なるものです。「もしA⇒A’が真なら、A’の原因はAにある(のでAは責任を負うべきだ)」はあたりまえのことですね。もし上のパラレル・ロジックを適用するなら、例えば次のような文になるでしょうか。「もし、小泉政権の政策が格差社会を招いたとすれば、ブッシュの政策が9・11を招いたともまた言えるかもしれない。」(春秋の筆法?)このとき、小泉政権に責任があることを暗示していると読めるでしょうか?
いずれにせよ、『「A⇒A’」⇒「B⇒B’」』という言説に対し、「A⇒A’」を暗示しようとするレトリックだというふうに取るのはやや偏った感があるように思います。むしろatsushiさんは「AならばA’」というふうに勝手に仮定して、そこから導きだせる結論をふりまわす論評(A’の原因はAだ)にご不満なのではありませんか。それは仮定の形をとった断定にすぎず、それは今回のsatoshiさんの論点「前段を断定するのはよくない」と同じ意見だと思います。
Posted by: 松の字 | 2006.07.13 at 21:12
「説得力を増す」という題名がatsushiさんにアンフェアなイメージを与えたのではないかと思います。「懐疑心を抑える」という書き方ならアンフェアに感じなくなるのではないでしょうか?ポジティブなものを肯定するのとネガティブなものを否定するのは結論として言っていることが同じでも受け取る側に違ったイメージを与えるものです。今回の話題にも通じることですね。奇しくもコメント欄が話題とリンクする展開を見せたという感じがして興味深いです。
Posted by: bob | 2006.07.14 at 08:38
atsushiさんうんぬんはどうでもいいことですし、このテクニックも知っていて損はないでしょう。
しかし論点となっているのは「いかにして社員の気分をリフレッシュしてやる気を出させるか」であってその一つの手段として環境を変えると効果あるかもよといっているだけで、それ以外で経済的で良い方法があればそちらを選択した方がいいということではないでしょうか?
Posted by: imatch | 2010.12.05 at 17:43