Previous month:
August 2007
Next month:
October 2007

民意とブッシュ政権の意向の間に板挟みになっていれば、誰でも胃が痛くなる

 アマゾンでアフィリエイト広告を出していると、自分が紹介した本がどのくらい売れたかというのが分かるのだが、その売り上げレポートの中には私が紹介していない本も半分ぐらい混ざっている。その中で気になる本があると、今度は自分のために注文したりする私である。ちょうど今日、そうやって注文したのが「拒否できない日本」という本。安倍総理の引退声明を読んでいて感じていた違和感に答えをくれそうな本だ。アマゾンのページにある読者からのコメントもなかなか興味深い。

 ちなみに、私が安倍総理の引退声明を読んで感じた違和感とは、「安倍さんはいったい誰のために働いているんだ?」ということ。小沢さんから言われなくとも、「テロ対策」を最優先課題にすることを国民が望んでいないことは選挙の結果からも明確。それにもかからわず「テロとの戦い」という言葉を何度も繰り返す彼を見ていると、彼のメッセージは国民に向けてのものではなく、ブッシュ政権に向けてのものに見える。

 別の言い方をすれば、安倍さんが辞任したのは、ブッシュ政権に対して彼が「政治生命を賭けてでも通す」と約束していたテロ対策特別措置法の延期を自分の力で通せる見込みがなくなったから、としか思えないのだ。本来ならば国民のために働いているはずの総理大臣が、まるでブッシュ政権の下僕のように、ブッシュ政権の望む方向に国を持って行けないから責任を取って辞任する、という図はいささかショッキングであった。

 安倍さんは機能性胃腸障害で入院したそうだが、これだけ激しく「民意」と「ブッシュ政権の意向」の間に板挟みになっていれば、誰でも胃が痛くなる。一方のブッシュもアメリカ国内では今や批判の対象で、今のイラク政策が(アメリカ国民の)民意を反映しているとはとうてい思えない状況。その意味ではブッシュもかなり胃が痛いはず。このままの勢いだと、次の大統領は民主党から出ることになり、イラクからの撤退はほぼ必須。次の自民党総裁はよほど舵取りを気をつけないとブッシュ政権と心中することになる。そう考えると、政権交代前に「小沢・(ヒラリー)クリントン会談」を実現するというのも面白いかもしれない。日本のテレビ局もそのくらいのエンターテイメントを演出する力を持っていれば見直すのに...


未来の買い物は "finger tip shopping"!?

 Google Video に "1999 A.D. Shopping from Home" というタイトルのビデオが公開されている。1967年に作られたこのビデオは、「家からショッピングが可能になる」ことを予想したコンセプトビデオ。実際にそれが可能になった今と比べてみると面白い。

 ユーザーインターフェイスがずいぶん今のものと違う部分や、銀行からのレポートが相変わらず紙に印刷されている(そしてその写真を家から見る)ところなどは笑えるが、1967年ごろの人たちが想像もしなかったのは、インターネットのオープンさ。もしインターネットがオープンにならず、 compuserve、ニフティサーブのような閉じたままのものであったなら、ここ数年の進化はありえなかった。

 「第二種通信免許」などとらずに誰でもウェブサイトを立ち上げられること、そして、URLさえ分かればどのウェブサイトに行くことができること、私たちが何気なくしているこの二つのことが、どのくらいすばらしいことなのかをこのビデオを見てつくづく感慨に浸った私である。


9月25日に日本で講演:「いまさらレジデントアプリなんてありえない」

 UIE Japan のサイトではすでに告知済み(参照)だが、9月25日に日本で講演をする予定である。UIEngineの宣伝は他の人がしてくれるので、私は「パーベイシブ・アプリケーションの時代」というタイトルで、私たちの身の回りの色々なデバイスが常にネットに接続している世界に関してのビジョンと、その時に考慮すべきソフトウェアのアーキテクチャについて語ってみたいと思う。

 UIEを創業して早くも7年が過ぎたが、ビジネスをしている時の一番の障害はFlashなどの競合するテクノロジーではなく、今だに組み込み機器のソフトは人海戦術でごりごりとC++やJavaで書いていれば良いと勘違いしている人たちである。そんな手法がいかに非効率的でネットの時代に即していないかは、とっくの昔に誰もが理解しているものと思ったがとんでもない。

 この前も、某IPTVのプロジェクトの担当者とあった時に、「ブラウザーではろくなUIが作れないので、レジデントアプリでごにょごにょ」と言い始めるものだから、「それだけはやめましょうよ。もう21世紀ですよ!」と私も熱くなってしまった。ネットに繋がっていないMP3プレーヤーならいざしらず、常時接続が前提のIPTVセット・トップボックスで「レジデントアプリ」というのは今の時代には絶対にありえない。「UIEngineじゃなくて、FlashだろうとAJAXだろうとかまわないけど、ユーザーインターフェイスはサーバーから取得する、という正しいアーキテクチャで作りましょう」と熱弁を奮ってしまった。

 今回の講演では、なぜ私が「(常時接続デバイスには)今の時代にレジデントアプリはいまさらありえない」と考えるているかについて語ってみたいと思う。こちらを参照


エンジェル・インベストメント

 知り合いの何人かに「CNETの記事を読みましたよ」と指摘された。「いったい何の記事だ?」と調べてみるとこれである。いままで、エンジェル投資は色々としてきたが、わざわざ私の経歴まで含めてニュースになったのは初めて。

 「エンジェル投資」というのは、私のようなある程度の成功体験のある人が若い起業家に対して個人投資家として運営資金の一部を提供すること。VC(ベンチャー・キャピタル)と違って投資する資金の規模は小さいが、逆に細かな審査などはせず、「キャピタルゲイン狙い」というよりは「こんな人たちに頑張ってほしい」という気持ちで投資をするケースが多い。エンターモーションの場合、昔からの知り合いの佐竹氏がものすごく頑張っているのを見て、それにエールを送っているのである。

 私の場合だと、2000年ぐらいから年に1〜2回のエンジェル投資をして来たので、これでかれこれ10件目ぐらいか。結果から言えば惨憺たるもので、「たんす預金」の方が遥かに利率が高かったぐらいだ--;。くやしいといえばくやしいが、そういったベンチャー企業がどんなところで苦労するのか、どういう戦略をたてるのか、成功する企業と失敗する企業の違いは何か、などが手に取るように分かるので、とても良い勉強になる。アドバイザー的な役割を頼まれることもしばしばだが、いつもこのブログに書いているようなことをもう少し具体的に言うだけのことなので楽なものである。

 エンジェル投資は米国ではかなり幅広く行われており、そのための組織も全米にたくさんある。もちろん、シリコン・バレーがそのメッカだが、私が住むシアトルにもいくつかあり、私はそのうちの一つ "Alliance of Angels" という組織に属している。月に一回のランチ・ミーティングがあり、そこに予選を勝ち抜いて来た起業家たちがビジネスプランのプレゼンに来る。Web2.0企業からチョコレートの会社まで、いろいろなベンチャー企業が来るのだが、それがまた良い勉強になる。

 日本に住んでいたら、弾さんあたりにでも声をかけて一緒に日本版 "Alliance of Angels" を作りたいところだ(弾さんなのは、彼の投資センスにあやかろうというもの^^)。一つ前のエントリーに書いた通り、優秀な若者が安定を求めて大企業に就職するような社会は面白くない。野心にあふれた若い人たちを支援する仕組みが日本にも必要だ、とつくづく思う。


「人生のやり直しに寛容な社会作りエントリー」に対するコメントに答えてみる

 先日の、「安倍総理への提案:『人生のやり直し』に寛容な社会作りをしませんか?」というエントリーに対してたくさんのコメントや質問をいただいたので、あえて私の意見に否定的なものも含めて、いくつか代表的なものに答えてみる。

・日本がダメでアメリカが良くて、という思考はもうやめませんか?

 これは大きな誤解。私も「日本がダメでアメリカが良い(もしくはその反対)」という一方的な見方は大きらいである。日本にアメリカにも良いところ悪いところがたくさんある。ここであげた「人生のやり直しやすさ」は、私がアメリカの方が良いと考えているものの一つでしかない。

・見方はいい。ただ、事例がいかにもでどうも。

・レアケースを凡例の様に言い立てるのはなあ……。

 レアケースではない。実際にここに挙げた例のようなキャリアを持った人たちがゴロゴロしているのが米国。日本のように「一流大学を卒業して、一流企業に就職し、そのまま一生勤め上げました」という人の方がよっぽどまれ。

・同意だけど、安倍さんに振ってもしょうがない

・それを阿呆ボンに聞いても無駄だろ。

・なぜ安倍さん? 彼が必死になってこの問題に取り組んだところで彼では少しも改善できない。総理が解決できるレベルの話じゃない。

・提案(質問)している相手が間違っている気が・・・

・安倍総理はおぼっちゃまですから何を言っても無駄です。

 安倍さんの名前を出したのは、できるできないを抜きにして、一国の長としてこの手の問題点をきちんと国民と議論した上でビジョンを持って国をリードするのが彼の仕事だから。構造改革にしろ、憲法改正にしろ、根底に「日本をこんな国にしたい」「こうやって国力を上げたい」というはっきりとしたビジョンがなければ「改革のための改革」にしかならず、国民の理解も得られなければ、実質的な変化をもたらすことはできない。特に、アメリカのように「機会均等」を強く打ち出した政策にするべきか、日本独自の「結果平等」路線を走るのかには大きな違いがあるのだから、そこははっきりとすべき。

・日本でも同じことができそうに見えるんだが・・・どこが障壁なのかよく分からん。

・失敗した人間、過ちを犯した人間にはやり直して欲しくないって思ってる人もいる気がする/ここで例に挙げられてる人く
らいの能力があれば日本でも割とやり直せてるんじゃないか。

・大企業にこだわなければ、実力さえあればやりなおせるのでは。

・日本でもできる事ばかりじゃないか。日本もクレクレ社会になりつつあるのだろうか。

・ほんとに日本はやり直しずらい国なんだろうか。企業の不合理な新卒偏重採用はプレイヤー全員に不幸をもたらしているとは思うけど、逆にそれくらいしか具体的なケースが思い浮かばない。

 日本での「人生のやり直し」をしにくくしている原因はたくさんあるが、一番大きな原因は、企業が採用の際に年齢を採用条件の一つとすることがいまだに合法なこと。よく採用情報に書いてある「35才ぐらいまで」というやつである。これがあると、「自分のキャリアを修正するために大学に戻って勉強しなおしてから再就職する」とか、「子供を育てるためにしばらく休職してから復帰する」などがものすごく難しくなる。一方、米国では採用面接の際に応募者の年齢を尋ねることすら御法度。年齢・性別・宗教・人種・性指向などを理由に採用を断ったりしたら、企業にものすごいペナルティが課せられる。それと比べると、日本の機会均等法は甘すぎる。

・入るのだけ難しい日本の大学に問題があるとは思う

・米国はそもそも大学が専門学校のようなもので仕事に直結することをするっていう背景を無視していないか

 これはとてももっともなコメント。日本の大学を「仕事に直結することを学ぶところ」「必死に勉強しなければ卒業できないところ」にしない限り日本の国力は落ちて行く。

・そのかわり解雇やレイオフが頻発するわけだけど、どっちがいいのだろうか。

 これもとてもまっとうなコメント。再就職だけを容易にしながら、解雇やレイオフをしにくいままにしておくということはありえない。人材市場にしっかりとした競争原理を取り入れるというアメリカ方式は、「優秀で努力を惜しまない人であれば、誰でも階段をどんどんと登っていける社会」であると同時に、「一度ある職につけたからといってウカウカはしていられない社会」である。「人生のやり直しに寛容な社会」と「既得権を維持しやすい社会」は両立しない。

・日本でも戦後の混乱期から高度経済成長期まではびっくりするほどゆるゆるでイレギュラーが多かったと思うが(というかスタンダードな道なんてなかった)

・アメリカの強さの一つが見えた気がする

 これもするどいコメント。日本の高度経済成長期は、夢と野心と才能にあふれたさまざまな経歴を持った人たちによって作り出されて来たことを忘れてはならない。優秀な若者の大半が安定を求めて大企業に入るような社会には、あのころのような成長は期待できない。一攫千金を狙って次々にベンチャー企業を起こす才能にあふれたハングリーな若者、そこに投資をするベンチャー・キャピタル、それこそが米国の強さの秘訣である。

・日本は未だに、良くも悪くもムラ社会的で、レールから外れる事、ムラの掟を乱す事に対しては酷く過敏な反応で排除にかかるよね。そういう世間の構造を変えないと行政が法制で弄るの限界あるよ

・これが実現したらよりよい社会が!とは思うけど、現実にするには日本社会の意識を根底からぶち壊すことになりそうです。

・やり直し可能な社会になると若者に言う事をきかせるのが難しくなる。流動的になると競争が発生するため搾取がしづらくなる。それは老人にとっては都合が悪い。今の日本はやり直しさせないようにシステムが出来ている

・しかし、パイを有限とすると、やり直しがきく→今の受益者のパイを奪う結果になるよ、失敗者以外が望むのだろうか?

 根本的には、こういった日本特有の文化があることは否定できないし、「だからこそ米国式の機会均等社会ではなく、日本的な結果平等社会を作るべき。自由競争で社会を混乱させるよりは、既得権者の利権を守って社会を安定させるべき」という考え方があるのも分かる。しかし、そんな考えかたと米国式の資本主義経済がそもそも両立するのかどうかに、私は大きな疑問を持っている。ここまでグローバル経済圏に巻き込まれた経済活動をしておきながら、一部だけ資本主義から大きくはずれたことをするというのはあまりに「ゆがみ」が大きすぎる(そして、その「ゆがみ」のスキをついて、外資系の投資ファンドが濡れ手に粟の暴利をむさぼる)。

【追記】良いコメントを一つスルーしていた、と指摘されたので。

・どの例も能力が豊富そうに見えるやつばっかで、全般的に能力に乏しい人はどうなるんだろう(アメリカでもそういうのは結局ホームレスとかじゃないの

 これも良いコメント。アメリカの採用している「機会均等」とは、全員に平等に機会を与えることにより、人種や年齢や性別に関わらず「才能や野心があり、努力を惜しまない人」がどんどん成功できる機会を作ることであり、同時に「才能も野心もなく努力しない人」は浮かばれないし、「既得権にしがみこうとするだけで自分を向上しようとしない人」はどんどんと落ちていく。これが「結果平等」主義との大きな違い。


砂丘のいたずら書きに関するコメント

 とっとり砂丘におおきないたずら書きがされ、それがニュースになり(参照)、その犯人が名古屋大学のアドベンチャーサークルHuckleberryfinn(Huck)であることがネットの力で判明したそうだ(参照)。

 私はこの程度のいたずらはどんどんやるべきだと思っているのだが、ちょっと残念なのがそのサークルの人たちのその後の行動。どのみちばれてしまったのだから、「目立とうと思ってやったいたずらでした。観光客の方々にはご迷惑をおかけしました」とどうどうとしていれば良いと思う。風がすぐに消してくれるならそのままにしておいても良いし、時間がかかりそうならばもう一度出向いてレーキでもかけてくれば良い。それだけの話だ。逃げ隠れはすべきではない。

 これで思い出したのは、小学生のころにマンションの向かいの学校の校庭に、雪の朝におおきないたずら書きをしたこと。マンションの住民全員に見えるように、校庭いっぱいにバカボンのパパを書いたのだ。小学生だったからこれですんだが、中学生のころだったら何か放送禁止なものを書いたに違いない。いたずらとはそういうものである。

 今回のいたずらは、その意味では雪の上のいたずら書きと五十歩百歩の話。恒久的なダメージを与えたわけでもないし、目くじらをたてずに多めに見てやってあげても良いレベルのいたずらだと思う。罰を与えるとしてもセンスが必要。「サークルのメンバー全員で砂丘のゴミひろい」程度が適切。

 なんだったら、サークル自ら「国立公園とか海岸とかに目立ついたずら書きをしては、それを元に戻した後、ゴミひろいのボランティアをする」というのを主要なサークル活動とするのも悪くない。そんな活動をするのであればこのブログからメンバー集めに喜んで協力するがいかがだろう。


「心地よい双方向コミュニケーション」が不可能になる臨界点の話

 昨日のエントリーへの反応が予想以上に強い。はてなブックマークが始まったばかりのころは、こんな時にはここぞとばかりに気合いを入れたエントリーを連続して書いて「チェッカーズ狙い」(はてなの人気ブックマークに二つ以上のエントリーを同時に登場させることを狙ったエントリーを書くこと。「チェッカーズ」がデビュー当時に「ザ・ベストテン」に同時に何曲もエントリーしていたことに基づく造語)などをして遊んでいたのだが、最近は少し大人になって、逆に少しグリップを緩めるようにしている。

 あの手の刺激の強いエントリーを書くと、一見(いちげん)さんがたくさん押し寄せ、そのエントリーだけで私の人となりを判断できると誤解した上で、「アメリカのことばかり褒めてどうするの」「安倍さんに言ってもどうしようもないでしょ」とコメントを残して行く。誤解ぐらいならば良いが、何を考えたか内容の批判ではなく筆者(=私)を批判してくる人までいる。誤解を解こうと次のエントリーを書いても、一見さんなので読んでもらえる保証はない。

 以前に梅田氏と話した時に、彼が「ブログも一日3〜4千ページビューぐらいまでなら問題ないのだが、それを超したあたりから『心地よさ』が失われる」と言っていたことを思い出す。別の言い方をすれば、数千人の常連さんだけを相手にならば「心地よい双方向コミュニケーション」を確立することも可能だが、それを超すと「心ない一見さん」(=ネットイナゴ)が負のオーラをまき散らし始めるので困る、ということである。

 私のブログの場合、幸いなことにそれほどネットイナゴで苦労したことはないが、用心に超したことはない。その意味では、おとなげない「チェッカーズ狙い」などは自粛して、こうやって独り言っぽいエントリーを適度にはさんでおこうと考えている私である。できることなら「心地よいコミュニケーション」が不可能になる臨界点などないことを願いながら...


安倍総理への提案:「人生のやり直し」に寛容な社会作りをしませんか?

 米国で暮らし始めてもう17年になるが、つくづく感じるのは、ここが「人生のやり直し」にとても寛容な社会だということ。受かった大学や最初に就職した企業で人生が大きく左右されてしまう日本とは著しく異なる。

 私の知っている限りでも、さまざまな「人生のやり直し」をした人たちがいる。

・高校を中退してロックバンドを作り、キーボード演奏者としてそれなりに成功をおさめるが20代の半ばにグループは解散。勉強し直して音大に入り、そこでピアノを本格的に勉強し、今はピアノの先生。
・大学卒業後、IBMでプログラマーとして5年ほど働くが、出産と同時に専業主婦に。子供が大きくなったので、今度は大学院で最新のコンピューターサイエンスを勉強しなおし、そこからベンチャー企業に就職。
・大学時代にはフットボールの選手をしており、プロからも声がかかるが、選手としての寿命のことを考えて、建築業界に就職。何回か転職をするがなかなか良い仕事が見つからず、今はMBA取得のために勉強中。
・高校卒業後、ミリタリー・スクールに行き、卒業後にアーミーに入り湾岸戦争に参戦。移動中にヘリコプターが墜落し、負傷して帰国。その後、大学に入り心理学を勉強し、今はセラピスト。
・大学でマーケティングの勉強をし、広告業界に。数年経ってもうだつが上がらないので、今度は法律の勉強の為に大学院に。その後弁護士になるが、バブル崩壊の時に弁護士事務所が倒産。その弁護事務所の顧客であるベンチャー企業に採用され、ビジネス・ディベロップメントの手腕を発揮した後、そのベンチャー企業のM&Aを成功させる。その手腕を買われて、今は別のベンチャー企業のCEO。
・地元の州立大学を受験したが失敗。しかたがないので近くのコミュニティー・カレッジで短大卒に必要な単位まで取得してから州立大学へ編入。
・高校を卒業後、ボーイングに経理部門のアシスタントとして入社。働きながら大学に通い、大学の卒業資格を得て、経理部門のスタッフに昇格。そこでさらに10年働いた後に、今度も働きながらMBAの取得に挑戦。

 彼らに共通するのは、自分のキャリアに行き詰まった時に、キャリア・アップのために大学に入り直したり、MBAを取得するためにビジネス・スクールに行ったりしていること。当然、いろいろな苦労や努力もしているから可能なことだが、注目すべき点は、米国の大学がそんな人たちのために門戸を大きく開いていること。企業もそんな人たちにとても寛容だ。

 「人生のやり直し」がしやすい社会を作れば、「とりあえず大好きなロックで食っていけるかどうか試してみる」、「大企業の内定をけってベンチャー企業を起業する」、「若いうちに子供を産んでおくためにしばらく休職する」、「受験には失敗したけど、とりあえず第三志望の大学は受かったので行ってみる」、「大好きな仏文学の博士号を取得しても食っていくのは難しいことは知っているけど、とりあえず取ってみる」、などの行動をそれほど大きなリスクを負わずにすることが可能になる。

 日本の若い人たちに「直感を信じろ、リスクを追え、日本の将来は君たちにかかっている」とハッパをかけたところで、社会そのものが失敗に寛容で「人生やり直し」が可能になっていない限り、「一流大学に入ってそこから上場企業へ就職」という無難な道を選ぶ学生が大半を占め、そのレールに乗れなかった若者たちが疎外感からフリーターやニートに走ってしまうんではないだろうか。

 このあたりのところ、どう思います、安倍総理?


ゴール設定の際に意識すべき四つの点

 会社を経営しているとしばしば「ゴール設定」の話が出てくる。会社全体のゴールであったり、グループのゴールであったり、従業員一人一人のゴールであったりもするのだが、そもそも何のためにゴール設定が必要なのかを理解せずいると、「できるだけ売り上げを伸ばす」とか「誰よりもがんばる」みたいなあいまいで抽象的なゴールを設定してしまう。

 そもそもゴール設定が必要なのは、三年後とか五年後とかに会社が実現しようとしている大きな目標に向かって進む時に、その目標までの距離の大きさ故に方向を見失ったり、自信を失ったりしないためである。大きな目標に向かって、長期・中期・短期のいくつかのゴール設定をしておくことは、方向性を失わずに着実に一歩ずつ前進していくのに必要不可欠なのである。

 ゴール作りの際には以下の四つの点を強く意識する必要がある。

1。ゴールは明確に定義されており、達成できたがどうかが明確に計測できるものでなければならない。

 高い山に何日かかけて登る場合、「初日からがんばってできるだけたくさん登る」というあいまいなゴール設定では、食料をどのくらい持っていって良いのかが決められない。「初日は少なくとも三合目まで登る」という明確なゴールを設定してこそ食料その他の計画が可能になるし、そのつどちゃんと計画通りに進んでいるかどうかのチェックができる。

2。ゴールは会社が持つ「大きな目標」にとって必要不可欠なものでなければならない。

 同じく登山で言えば、「景色の良いところがあったら記念写真を取る」はゴールではない。そのあたりが明確になっていれば、「三合目のキャンプ地にカメラを置いて来てしまったが、一度そこまで戻るべきか」という質問への答えが明確になる。

3。ゴールはチャレンジングでありながら実現可能でなければならない

 設定したゴールは簡単すぎてもだめだが、現実的でないほど難しいものではやる気をなくしてしまう。がんばって効率良く仕事をしてこそ何とか到達できる、ぐらいの所に設定する必要がある。

4。ゴールを達成するべき時期は明確に指定されていなければならない

 当たり前の話だが、「β版を公開する」とか「10万人のユーザーを確保する」などのゴールに「いついつまでに」という日付の設定は必須である。「いつかは100万人のユーザーが使うサービスに育てる」というのは単なる「希望」に過ぎず、「2008年の3月末までには10万人の登録ユーザーを確保する」はゴールである。

(今日のエントリーの元ネタは、Hill & Jones の「Strategic Management Theory」。)


恐竜の時代から昆虫の時代へ、超小粒企業の時代がやってくる!?

 たまたまあるプロジェクトで37signalsのBasecampを使っていたため、私も使わされることになったのだが、わずか1日で使いこなせるようになるそのシンプルさに惚れ込んでしまい、勉強用のアカウント(これは実際にグループで使う)と、個人のタイムマネージメント用のアカウントと、今や三つのアカウントを使いこなすようになってしまった私である。

 自分で作った二つのアカウントは無料バージョンだが、そこで提供されているWriteboardというものすごく便利なツールを使い始めたのが運のつき。無料版は二つのドキュメントまでしか作れないとは知らずに使い始めてしまったため、このままだと三つ目のドキュメントを作る時には有料会員(月12ドル)になっていることだろう。

 37signalsという会社のことは、Ruby on Railsを作った会社としてしか認識していない人も多いと思うが、私にとっては、CEOのLess is Moreというスピーチの方がずっと印象が深い。すばらしいスピーチなので、まだ聞いていない人はぜひ。

 BasecampはまさにこのLess is Moreのコンセプトが全面に出た作品。「プロジェクトのマネージメントの仕方はそれぞれ違うもの。どのみち誰もが100%満足できるツールは作れないのだから、基本的なコミュニケーション機能に絞って、徹底的に使いやすさを追求した」というだけあって、使いやすさは天下一品。複雑な機能がテンコ盛りで単純なことをするのが難しくなってしまっているMicrosoft Officeや日本の携帯電話とはまったく逆のベクトルを目指している。

 そんな彼らを見ていると、これからのイノベーションを引っ張るのは、GoogleやMicrosoftのような大企業ではなくて、37signalsのような少数精鋭の超小粒企業なのではないかとすら思えてくる。そんな超小粒企業が上場もせずに買収もされずにひたすらものすごい価値を生み出していく。それこそエンジニアのパラダイスかも知れない。