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プラットフォームを選ぶということ

 この業界で仕事をしていると、しばしば迫られるのが「どのプラットフォームに向けて商品開発をして行くのか」という決断。会社としての経営判断の場合もあれば、個人のスキルアップやキャリアパスのための判断の場合もあるが、いずれにしろ限られたリソース・時間をいかに有効に使うか、という点ではとても大切。

 パソコン用のソフトウェアであれば、「Windows向けに作るのかMac向けに作るのか」というOSレベルでの選択肢もあるし、「Windows Vista独自の機能を使って差別化を図るのか、それともWindows XPでもちゃんと動くように作ってまずは大きな市場をとりに行くのか」というOSのバージョンレベルでの選択肢もある。もちろん「そもそも特定のOS向けのアプリを作るべきか、それとも、すべてウェブ・アプリケーションとして作るか」というアーキテクチャ・レベルでの選択肢もある。

 「少なくともここ数ヶ月はiPhone向けのアプリケーションの開発に真剣に取り組む」と決めた私だが、そこには当然のごとく「Windows MobileでもGoogleのandroidでもJavaFXでもなく、iPhone OSを開発プラットフォームとして選び、そこにそれなりの投資をする」という意図的な「プラットフォームの選択」がある。

 そんな私を見て、「どうしてandroidではなくて、iPhone OSが選ぶべきプラットフォームだということが中島さんには分かるんですか」と、あたかも私が「iPhone OSが市場で大成功をおさめること」ことを確信でもしているような質問をしてくる人が何人かいたが、そこには大きな誤解がある。

 もちろん、私なりに市場規模、ビジネスモデル、技術そのもの、競争相手の状況などを総合的に見て「どのプラットフォームに投資をする価値があるか」という判断をある程度はするが、それはあくまで「予想」にすぎず、「確信」などというものからはほど遠い。Windows Mobileが着実にシェアを伸ばして行く可能性もあれば、Googleのandroidが携帯電話OSのデファクト・スタンダードになる可能性だって十分にある。iPhoneのマーケットシェアが、アップルの当初の目標の1%を超えて、数パーセント、十数パーセントになる保証など全くない。

 では、なぜその不確定さにも関わらず、私は(少なくとも個人として)iPhone OS上でのアプリケーションの開発に本気で取り組むことに決めたのか。簡単に言えば「iPhoneとiPhone OSに魅せられたから」であり、「iPhoneに成功して欲しい」と強く感じているからである。

 アラン・ケイが言ったように、未来を予測する最良の方法は未来を創りだすことだ(参照:"The best way to predict the future is to invent it")。「どのプラットフォームが勝つか」を予想してそれに基づいてビジネス判断をすることは「勝ち馬に乗ろうとする」行動でしかないが、こんな風に「このプラットフォームを勝たせたい」という思いで積極投資をすることは、自らが特定の馬を選んで「その馬を勝たせよう」とする行動であり、ある意味で「未来を創りだそう」とする行為だ。

 別の言いかたをすれば、「プラットフォームを選択する」という行動は、「どのプラットフォームが市場で成功するかを読む」という受け身の経営判断と(もっと消極的なものとして「勝者が明確になるまでは一切の投資はしない」という戦略もある)、「どのプラットフォームを勝たせたいか」という積極的な経営判断の組み合わせである。もちろん、後者には「自分がサポートすることによってプラットフォームが成功する可能性が高くなる」という、ずうずうしいまでの楽観主義と自己の過大評価が入っているが、結果から見ればそのくらい楽観的な人たちがこの業界を動かしてきたことを考えれば、そういう積極的な経営判断をしてこそ、この業界にいる醍醐味が味わえる、というのが私の信念である。

 ということで、iPhone向けのアプリケーションをApple Design Award向けに提出させていただいたわけだが、あとはWWDCでの結果発表を待つのみである。当面の目標はDesign Awardをもらうことだが、もちろんゴールは「iPhone App Store」でアプリケーションを配布して、できるだけたくさんのiPhoneユーザーに私が作ったアプリケーションを使ってもらうことにある。サーバー側を作っている相棒に「当初は何人ぐらいのユーザーが使うと予想する?」と聞かれて「30万ユーザーぐらいが一度に来ても耐えられるように設計しておいて」と答えた私は、保守的な人たちから見れば「超」楽観的なのかも知れないが、そのくらいの意気込みを持っていなければ、眠る時間を削ってまでもの作りに集中するエネルギーは生まれてこない。


「少年よ大志を抱け!」よりも「若者よどん欲になれ!」の方が良くないか?

 月刊アスキー向けに「仕事を楽しんでしている人に共通するもの」というテーマでコラムを書いているのだが、そこで引用した「Boys, be ambitious(少年よ大志を抱け)!」に含まれたメッセージがどうも気に入らない。

 「少年よ大志を抱け!」という言葉には、「楽して金儲けしたい」、「風呂屋の番台に座ってみたい」、「美人の嫁さんが欲しい」、「一度で良いから女優とデートしたい」、「プール付きの家に住みたい」、「有名になって女子アナと結婚したい」、「一発当てて、後はハワイでのんびり暮らしたい」などの、下世話な欲求を否定するメッセージが含まれている。特に日本語訳の「大志」という言葉には、「志はもっと大きくなければいけない」「金儲けなど考えてはいけない」「私利私欲に走ってはいけない」というメッセージが強くこめられている。

 「最近の若者は覇気がない」などと批判する大人がたくさんいる。そんな人たちに限ってホリエモンのように「金儲けをしたい」ことを包み隠さずに正直に認め、それに基づいて行動する若者が現れると「拝金主義だ」と頭から批判するが、彼らはそこに含まれた矛盾に気がついていない。そんな大人たちから「金儲けみたいな下世話なことは考えずに、志を高く持て」なんて言われ、「そうか、俺もがんばろう」と若い人たちが考えて日本が元気を取り戻す、という金八先生のようなシナリオは、どうもしっくりこない。

 私の知り合い(アメリカ人)が、今年の夏からドバイの会社に転職することになった。理由は「あっちにはオイルマネーがあふれているから。そこで一角千金を当てて、早めに悠々自適の引退をしたい」からだそうだ。下世話である。どん欲である。でも、彼の目はきらきらと輝いている。

 そもそも資本主義というのは、「企業や個人が自己の利益を最大にするためにする経済活動が社会全体に利益をもたらす」ように設計されている。社会主義の国ならいざ知らず、日本が資本主義の国である限り、人々の「利益を追求する」強い欲求があってこそ経済活動がさかんになり、それが国力につながる。「資本主義社会の原動力」である人々の富への欲求を「拝金主義」という言葉を使って頭から否定することは、資本主義そのものを否定することと同じである。

 こんな理由で、私は「少年よ大志を抱け!」という言葉があまり好きではない。現実離れしていて心に響いてこない。もっとストレートな「若ものよ、どん欲になれ!」の方がずっと元気がでると思うんだがどうだろうか?