原発事故以来、色々なことを考えているのだが、その一つが「なぜ日本では民意がなかなか反映されないのだろう」ということ。泊原発の再稼働容認が典型的な例。これだけ多くの人が反対しているのにも関らず(参照、参照)、必要だったはずのストレステストもなく、原子力安全委員会の形だけの二重チェック(参照)で北海道知事の再稼働容認となった。
「政治家が票集めで忙しくて実際に国を運営しているのは官僚」「官僚の業界への天下りが官民の癒着を生み出している」「マスコミはスポンサーに不利になることは報じない」などの政府やマスコミにも大きな問題があるが、国民側にも若干問題があると思う。うまく表現するのは難しいのだが、
- 政府は「お上」であり、市民運動とは「お上にたてつくこと」に相当する
という江戸時代から続いているメンタリティが根っこのどこかにあるのではないかと思う。それが「市民運動=左翼活動」というイメージを固定化させてしまい、「酒の場で政治を熱く語るのは空気の読めないヤツ」という空気を作ってしまっているのではないかと思う。
私は20年ほど(右翼の国)米国で暮らしているが、この国の国民ほど政治を語るのが好きな国民はいないんじゃないかと思うぐらい皆それぞれの意見を持っているし、市民運動はとても盛んである。
今日も近所の市役所で開かれた会議を傍聴してきたのだが、その理由は知り合いから「市が州の環境オタクの言いなりになって、不必要に建築基準法を厳しくしようとしているから、それを阻止するためにも傍聴席から発言して彼らの暴挙を阻止しよう」という連絡が来たからだ。
こんな会議での米国市民の発言はものすごい。「州の環境オタクの言いなりになんかなってんじゃないよ。君たち役人は僕らに雇われているんだってことを忘れてはいけないよ。市民の権利を守るために州の役人と精一杯交渉するのが君たちの役目。それができないなら君をクビにして別の人を雇ってもいいんだよ」という剣幕。
結果としては、市側が住民の声を聞いて折れ、より市民側の権利を尊重した法案を作り、それを州に提出することになった。一件落着である。
ちなみに米国の場合、選挙で選ばれる市長や市会議員は基本的に薄給のボランティア(ただしロスみたいな大きな市は別格)。市民の代表として、市の職員に適切な人を雇い、彼らが市民のために働くように監督・指導するのが彼らの役割。
そんな関係だからこそ「市民のための仕事が出来ないなら君をクビにして別の人を雇ってもいいんだよ」という「上から目線」のセリフが一般市民から役人に向けて発せられるのだ。
日本で市民と役人がこんな関係を持つのは簡単ではないとは思うが、少なくとも「市民運動」「政策論議」を左翼だとか格好ワルイとか決めつけず、より多くの国民が政治(それも政局ではなく、政策に)に興味を持ち、市民運動に参加するようになれば日本を少しづつだが良い方向に持って行くことは十分に可能だと思うがいかがだろうか。