「一生チャンスをものにできない人」に共通する残念な考え方
2016.08.30
6月1日発売の拙著『なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードこそ最強の武器である』からの引用です。
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「まず作ってみる」が、 未来を変える
大学卒業後は、早稲田の大学院で相変わらずコンピューターのソフトを開発していました。大学院の修士課程を修了した後は、NTTの研究所に就職しました。自分は実務より研究のほうが向いていると思ったからです。NTTを選んだのは、当時、通信研究の日本最大手だったから、という理由です。
しかし、入社して14か月後のことです。アスキーがマイクロソフトと結んでいた代理店契約が切れ、マイクロソフトが日本法人を作るというニュースが私の耳に飛び込んできました。さらにそのニュースによると、私がアスキーでアルバイトをしているときにお世話になっていた15人の方が、マイクロソフトに移ったということでした。
私はマイクロソフトの社長に就任が決まった古川享さん(現・大学院メディアデザイン研究科教授)に電話をしました。「なんでマイクロソフトに誘ってくれないんですか。水臭いじゃないですか。僕がやりたくないわけないじゃないですか」と。そうして私もCANDYを開発したという実績を買ってもらい、NTTを辞め、日本法人のマイクロソフト株式会社に移りました。
マイクロソフトでは、主にアメリカのソフトの日本版を作る仕事をしていました。縦書きができるようにしたり、漢字変換ができるようにしたりなどです。
3年半日本法人で働いた後、ついに1985年にアメリカのマイクロソフト本社へ移ることになりました。そこで私はマイクロソフトの次世代OSの開発を任されました。
次世代OSの開発グループはなんと6、7人しかいませんでした。私はそのなかの一人だったのですが、英語があまり得意ではなかったので、どうも会話についていけませんでした。
それを見た上司は私に「何か考えてることがあるなら、プロトタイプを作ってみたら」と言いました。そうして私は相変わらずプロトタイプを作ることにしました。
本物ではなくてあくまでプロトタイプでいいということで、デザイナーに近い仕事をしていました。具体的にいうと見た目や操作性などの基本設計(アーキテクチャ)を生み出す仕事です。開発グループでは次世代OSのベースになるソフトウェアモジュールを作っていましたが、私はそこから外れ、一人プロトタイプの作成にいそしんでいました。
半年後、完成したプロトタイプを上司に見せると大喜びで、さらにその上司にもプロトタイプを見せることになりました。私が緊張しながら片言の英語で説明をしていると、上司の上司は「やはり目に見える形にするのは良い。これからいろいろな人にデモしてもらうことになると思う。よろしく頼むよ」と言いました。
それは私にとって最高の褒め言葉でした。ろくに英語もしゃべれないままシアトルに来た私にとって、「会社のために何か役に立つことができた」と実感できた最初の経験でした。
その後も、上司やいろんな部署の人が私の部屋に来るたび、私は喜んでプロトタイプのデモをしていました。そんなある日「来月の頭に、もう少しちゃんとした場所で、プロトタイプのプレゼンをしてほしい。30分ほど時間をあげるから、用意しておくように」と言われました。
「ミーティングの席ですらまともに話せないのに、英語でプレゼンなんて無理」という私に、上司は「何とかなるよ。君が作ったプロトタイプなんだから、君がプレゼンして当然だ。プロトタイプが良くできているんだから心配ないよ」と気楽に笑うのです。こんな経緯で、英語でプレゼンをすることになってしまった私は、とにかく恥をかかないようにするにはどうすれば良いかという作戦を立て始めました。
最初に決めたことは、スライドは一切使わず、プロトタイプのデモだけに専念することでした。プロトタイプのデモを命じられたのだから、細かい技術の話はせずに、とにかく見ている人に「次世代のユーザー体験はどうあるべきか」をわかってもらうことが一番です。そのためには、それだけで30分飽きさせないデモをする必要があります。
そこで、「次世代OSを入手したユーザーが、ユーザー登録をし、ワープロをインストールし、文章を作成し、プリンターを接続し、書いた文書をプリントする」という一連のユーザー・シナリオを30分かけてデモすることにしました。
プロトタイプ上のデモを斬新で魅力的なものにすれば、見ている人の意識はほとんどそちらに行くし、私自身は「これからワープロをインストールします」などの補足的なことを言うだけで十分です。
企画を早く形にした者がチャンスをつかめる
当日、会議室まで上司に連れられていった私は、「場所を間違った」と思いました。それは単なる会議室ではなく、1000人近く人が入れる大ホールだったのです。それも、観客席にはぎっしりと人が座っています。
「まさかこの会場でプレゼンするわけじゃないですよね?」
「ここだよ。マイクロソフトが毎年開催しているカンファレンスなんだ。パソコンメーカーやソフトウェアメーカーの重役たちが来ているから、マイクロソフトがどんなものを開発しているかをデモする絶好の機会なんだ」
せいぜい十数人くらいの、それもマイクロソフト社内の人たちに向かってプレゼンするものとばかり思い込んでいた私の背中に冷や汗が流れました。まさか、1000人近い観客の見ている前でプレゼンをすることになるとは夢にも思っていなかったわけですが、いまさら断るわけにはいきません。「やるだけやってみるしかない」と自分に言い聞かせるしかありませんでした。
少しすると上司が壇上に立ち、「これからマイクロソフトが開発している次世代OSのデモをご覧いただく。まだ開発中のものだが、社外の人たちに見せるのは今日が初めてだ」とアナウンスし、私に目配せをしました。
私の頭の中に「プロトタイプって言わなかったけどいいのかな」という疑問が浮かびましたが、とにかくこのプレゼンを無事にこなすことだけに全神経を集中していた私にとっては、どうでもいいことでした。
壇上に上がると、数百人の観客の目が私にそそがれます。深呼吸をして、デモをスタートさせます。
「これがユーザーがOSをインストールしたばかりの状態です。最初にすることはユーザー登録です」
練習しておいたシナリオどおりにデモを進めます。ほとんどが画面上の操作を見てもらえればわかるように作っておいたので、言葉を挟むのは要所要所だけでいいのです。プロトタイプも順調に動作してくれています。
観客はとても静かでした。私のデモを期待を込めて見ているようにも思えましたが、「なんてつまらないデモをしているんだ」とあきれているようにも思えました。その静けさが、私の緊張感を一層強めました。
ワープロをインストールし、文書を作り、プリンターの文書をドラッグ&ドロップしてプリントさせます。デモはすべて順調に動いてくれました。
「以上で、デモは終わりです」
私がデモを終了すると一瞬の間の後に、会場から大きな拍手がわき上がりました。デモは大成功でした。日本から出てきたばかりで英語が片言しか話せないからこそコアの開発チームから外れて、一人でプロトタイプを作っていた私のプログラムが、世界に向かって「次世代のOS」として発表されてしまったのです。
私自身だけでなく上司もその上司もこれが単なるプロトタイプにすぎないことは十分承知していたはずですが、それがプロトタイプだということを知らない観客から見れば、本当の次世代OSに見えたことだと思います。
余談になりますが、マイクロソフトはベーパーウェアという戦略が得意です。まだ完成してもいないものを発表して、競合他社のやる気を削ぐという戦略です。私はそれを知らなかったので、上司にまんまと乗せられたということになります。
時期は、1990年の中頃。Windows95リリースの5年も前の話でした。
私はこうやって、Windows95のアーキテクト(基本設計者)に任命されました。これもプロトタイプを率先して作ったことが認められたからでした。そうしてこのプロトタイプこそが、2章でお話しした、私がシカゴに移る前からカイロで開発することになる、後にWindows95として結実することになる次世代OSの種だったのです。
どんな仕事でも、企画をアイデアのままではなく形にした人がその企画の推進者になることができます。私のような日本から渡米したばかりのいちエンジニアがマイクロソフトで活躍できたのは、まさに限られた時間を濃密に使いこなし、プロトタイプを先に作ったからなのです。
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