昨日の「日本語の進化について、一つの実験をしてみる」というエントリー。皆さんからたくさんのフィードバックをいただいた(現時点でコメント70個、はてなブックマーク67個)。ご協力に感謝、感謝である。ブログがリアルタイムで双方向なコミュニケーションツールであるからこそ可能なこんな遊び。ネットがある時代に生きていてつくづく良かったと思う。
そこで本題だが、私が一番知りたかったのは「そこのコンビニでおでんが売っている」という、私ぐらいの世代の人にとっては「違和感」どころか「明らかな文法的な誤り」を含んだ文が若い人たちの間ではすでに市民権を持っているのか(何の違和感も持たずに受け入れられるものになっているのか)、という点であった。
しかし単にそれだけを書いて「この文は文法的におかしいと思いますか?」と尋ねたところで有効なデータは集まりそうにない。そこで、他の5つの例文を追加し、それぞれに小さなツッコミどころを用意しておき、皆さんがどこに一番反応してくるかを調べたしだいである(だから「調査」ではなく「実験」。ただし、本文の方の「違和感を感じる」というツッコミどころは本物のミス^^;)。
よせられたコメントを読む限り、かなりの人がこの「文法的な誤り(『おでんが売られている』もしくは『おでんを売っている』が正しい)」に気がついたようだが、全く疑問すら抱かなかった人もたくさんいることが確認できた。先のエントリーにも書いたように、言葉は生きていて日々変化している。多くの人が誤用に気がつかずに使い、それがなんの違和感もなく人々に受け入れられるようになったとき、それは市民権を得て「正しい日本語」になってしまうのだ。
だからといって、この「そこのコンビニでおでんが売っている」という言葉がこのまま日本語として定着するとは限らないが、少なくともすでに一方的に「間違っている」と決めつけられる段階は突破してしまっているように思える。
そもそも「主語が省略されている文」どころか「主語がない文」が許されている日本語において、「おでんが売られている」状態を、まどろっこしくて言いにくい「売られている」という受け身でしか表現できない状況が進化圧となって、本来なら文法的に間違っているはずの「おでんが売っている」という表現を許容する結果となっているのではないか、というのが私の解釈である。
ひょっとすると、既に「正しい日本語」としての市民権を得ている「ジャズがかかってる喫茶店」という表現も、一昔前には「ジャズを『かける』のは喫茶店のオヤジ。だから、『ジャズをかけている喫茶店』が文法的には正しい」という批判されていたのでは、と想像が膨らんでしまう。
そう言えば、NTTに入社したての時に、誤って研究室の花瓶を割ってしまい、上司に「申し訳ありません、花瓶が割れてしまいました」と誤り謝りに行ったところ、「花瓶は勝手には割れないだろう。そういうときは「花瓶を割ってしまいました』という表現が正しい」と叱られたのを思い出した。わざとじゃないんだから「花瓶が割れた」で良いと思うんだが、どうなんだろう。
【追記】この表現に関する、日本語の研究者による考察を発見した。
「イチゴが売っている」という表現 又平恵美子
日本語母語話者の会話で「イチゴが売っている」というような表現が使われることがある。商品が「ガ」で示されるのは、単なる言い誤りによる格の誤用として処理してしまうには出現の頻度が高く、一つの定型構文として成立してしまっているものであると考えられる。 動作主ではなく対象が「ガ」によって表示されていること、必ず「売っている」などテイル形で現れるということ、商品の所有権が移動しないという状況に限定されているということがその構文が成立可能となる特徴としてあげられる。このような表現が存在し得る理由は、「商品として物が存在している」ということだけを表現するためには、冗長的でない規範的な言い方では言い表しにくいということが考えられる。
【『筑波日本語研究』第六号 要旨より引用】
この表現の面白さに気がついたのは私が初めてではないようだ。