大根の花

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 今日の写真は我が家の庭に植えてある大根に咲いた花。根っこが大きくなる前に茎が伸びて花が咲いてしまった状態である。どうしたものかと調べてみると、農家の人たちはこれを「薹(とう)が立ってしまった」と呼ぶらしい。薹とは茎のことを指し、「薹が立つ」とは「野菜として食用に値するものができるまえに茎が伸びて花が咲いてしまった状態」。気温が低すぎた場合などになってしまうらしい。

 適齢期をすぎた女性に対して「薹が立つ」という言葉を使うケースがあるが、もともとは農家の人たちが比喩として「うちの娘もそろそろ薹が立ってきた。(花を咲かせてしまって売り物にならなくなってしまった大根のようになる前に)そろそろ嫁に行ってもらわねば」などと使っていたのが一般化したもののようだ。


「普通そういうことしないよ」という言葉の暴力

 先日の海部さんとの対談のビデオがYoutubeに上がったので、その中から私が海部さんの本(パラダイス鎖国)の中に出て来る「プチ変人」が受ける言葉の暴力について語ったくだりを紹介。

 ちなみに、「プチ変人」とはスティーブ・ジョブズやアインシュタインのような「何をやっても許される大変人」と「ごく普通の人」の間に存在する無数の「何か新しいものを生み出すユニークな力は持っているけど、何をやっても許されるほどはまだ実績がない人々」のこと。

 そんな「プチ変人」たちが人と違うことをしようとすると必ず投げかけられるのが「普通そういうことしないよ」「そんなことやってもうまくいかないよ」という言葉の暴力。スティーブ・ジョブズだってアインシュタインだって、最初は「誰も知らないプチ変人」だったわけで。そんな暴力に負けていてはイノベーションは起こせないぞ、と。


富士の裾野のロングテール

 海部さんのブログではすでに告知されているが、同時出版を記念して公開対談をさせていただくことになった。3月11日夕方、都内某所。場所が「某所」なのは、人が殺到すると困るから秘密にするではなく、『手配中」だから。場所は追って報告させていただくので、会社の帰り道にお立ち寄りいただけるとありがたい。

 彼女の指摘どおり、海部さんの本と私の本はアマゾンでしっかりと「あわせて買いたい」でペアを組んでおり、ブログからの告知というマーケティング方法がいかに効果的かを表している。

 「この商品を買った人はこんな商品も買っています」欄には梅田さんの本がしっかりと二冊入っているあたりが、読者層を的確に表しているというか。

 興味深いのは、梅田さん・海部さん・私の三人に共通点が、アメリカの西海岸で暮らす日本人ブロガーである、ということ。日本の海外との関係を俯瞰的に把握しようとした時に、西海岸というのはちょうど良い距離という面もあるのかも知れない。

 ちなみに、先日のロングテール・ビジネス=裾野ビジネスという私の発言はなかなか評判が良く、「富士の裾野市をロングテールの聖地に」という意見まで寄せられた。

 こうなったら、「裾野ビジネス」を現代用語の基礎知識に入れるまで使い続けてみるか、と。


「書き初め」でよくない?

 あけましておめでとうございます。

 初詣よりも先に、ブログのエントリーを書くのは私ぐらいかと思いつつ、「新年の最初のエントリーを何と呼ぶべきだろう」と考えてみたのだが、単に「書き初め(かきぞめ)」で十分だと思う。昔の人は文章を書くと言えば筆を持っていたわけで、元々はその第一筆を「書き初め」と呼んだだけのこと。それならば、キーボードをたたくブロガーの第一筆を「書き初め」と呼ぶのは当然ではないかと。

 ということで、今年初のエントリーは、「新年の最初のブログ・エントリーを『書き初め』と呼ぼう」という呼びかけのエントリー。ブログを持っている方は、ぜひとも「書き初め」というキーワードを含めたエントリーを書いた上でトラックバックをお願いしたい(Typepadのトラバは手動でアクセプトしなければならないので、すぐには反映されないがご安心いただきたい。明らかなスパム以外はアクセプトする方針なので。)

 今年の抱負を語るのも良し、初詣はどこどこに行ったでも良し、今年こそはブログを書き続けるぞ、という宣言でも良し。これを機会に休眠状態のブログに数ヶ月ぶりのエントリーを書くのも良しである。正月早々からにぎやかなヤツだと思われる方も多いかも知れないが、ブログを通して日本語に少しでも変化を与えられるか、という実験の一環でもあるので、ぜひともおつきあい願いたい。


日本政府の「UFOは存在しません」発言にいちゃもんをつけてみる

UFOは存在しません-。政府は18日、「地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体」は存在しないと、閣議決定した答弁書で見解を示した。政府がUFOの存在を正式に否定したのは初めて。【「「UFOは存在しません」政府がUFO存在を否定」政治も‐政局ニュース:イザ!より引用】

 潤滑なコミュニケーションのためには、言葉の定義を共有することが大切。そこに食い違いがあっては、まともなコミュニケーションは不可能。良い例がこの「UFO」。もともとは単に「未確認飛行物体=正体がまだ確認できていない飛行物体」という意味の軍事用語であった。国防上、自国の上を敵国の飛行機に勝手に飛ばれてしまっては困る米国政府としては、パイロットなどが目撃した飛行物体すべての正体を確認しておきたいと思うのは当然で、それをきちんと記録に残すのは軍人の義務。

 ところが問題は、マスコミを中心にこのUFOという言葉の定義が次第にシフトし、「地球外から飛来して来た宇宙人の乗り物」の意味も含むようになったため、これが多くの誤解を生んでいる。

 米国政府には、毎年、数多くのUFOの目撃例が市民からよせられるが、その大半は「UFOマニア」と呼ばれる人たちからのもの。政府としてもそんなものの相手をしている暇は無いのだが、ごくたまに、空軍のパイロットとから、本来の意味での「UFO目撃」の報告が寄せられることもあるからやっかいだ。そんな情報がタブロイド紙に流れれば、おもしろおかしく「米軍パイロットがUFOを目撃!」「米国政府がUFOの存在を認める」と報道されるだけだ。

 その意味では、日本政府の「UFOは存在しない」という発言はとてもおかしい。元々の意味のUFO(=正体がまだ確認できていない飛行物体)ならば存在を否定することに意味がないし、マスコミの言うところのUFO(=宇宙人の乗り物)ならば、この存在を頭から否定することは政府がすべきことではない。

 政府なんだから、もう少し正確に「UFO(未確認飛行物体)目撃の報告は数多く受けているが、政府として、そういったものが一部の人たちが言う様に宇宙から飛来した宇宙人の乗り物だとは認識していないし、さらに調査が必要と思わせるだけの信頼度の高い情報も持っていない」と発言すべきだと思うんだがどうだろう。


「おもてなし」が現代用語の基礎知識に!

 はてなからの告知で知ったのだが、User Experienceの日本語訳としての「おもてなし」が現代用語の基礎知識2008に乗ることが決定したそうである。

 その経緯に関しては、以前のエントリーをコメント欄も含めて読んでいただくと分かるが、私の「こんな大切な言葉なのに適切な日本語訳がない」という呼びかけに対して読者の方々からさまざまな意見が寄せられ、その中でnaotake氏の「User Experienceは『おもてなし』だと思っています」という一言が妙にツボにはまり、それ以来私がブログも含め色々なところで使っている、というしだいである。

 「言葉は生きている」という感覚を文字通りに実感できたあたりが、まさにブログスフェアの「おもてなし」、と思った私である。


日本語うんちく:「そこのコンビニでおでんが売っている」

 昨日の「日本語の進化について、一つの実験をしてみる」というエントリー。皆さんからたくさんのフィードバックをいただいた(現時点でコメント70個はてなブックマーク67個)。ご協力に感謝、感謝である。ブログがリアルタイムで双方向なコミュニケーションツールであるからこそ可能なこんな遊び。ネットがある時代に生きていてつくづく良かったと思う。

 そこで本題だが、私が一番知りたかったのは「そこのコンビニでおでんが売っている」という、私ぐらいの世代の人にとっては「違和感」どころか「明らかな文法的な誤り」を含んだ文が若い人たちの間ではすでに市民権を持っているのか(何の違和感も持たずに受け入れられるものになっているのか)、という点であった。

 しかし単にそれだけを書いて「この文は文法的におかしいと思いますか?」と尋ねたところで有効なデータは集まりそうにない。そこで、他の5つの例文を追加し、それぞれに小さなツッコミどころを用意しておき、皆さんがどこに一番反応してくるかを調べたしだいである(だから「調査」ではなく「実験」。ただし、本文の方の「違和感を感じる」というツッコミどころは本物のミス^^;)。

 よせられたコメントを読む限り、かなりの人がこの「文法的な誤り(『おでんが売られている』もしくは『おでんを売っている』が正しい)」に気がついたようだが、全く疑問すら抱かなかった人もたくさんいることが確認できた。先のエントリーにも書いたように、言葉は生きていて日々変化している。多くの人が誤用に気がつかずに使い、それがなんの違和感もなく人々に受け入れられるようになったとき、それは市民権を得て「正しい日本語」になってしまうのだ。

 だからといって、この「そこのコンビニでおでんが売っている」という言葉がこのまま日本語として定着するとは限らないが、少なくともすでに一方的に「間違っている」と決めつけられる段階は突破してしまっているように思える。

 そもそも「主語が省略されている文」どころか「主語がない文」が許されている日本語において、「おでんが売られている」状態を、まどろっこしくて言いにくい「売られている」という受け身でしか表現できない状況が進化圧となって、本来なら文法的に間違っているはずの「おでんが売っている」という表現を許容する結果となっているのではないか、というのが私の解釈である。

 ひょっとすると、既に「正しい日本語」としての市民権を得ている「ジャズがかかってる喫茶店」という表現も、一昔前には「ジャズを『かける』のは喫茶店のオヤジ。だから、『ジャズをかけている喫茶店』が文法的には正しい」という批判されていたのでは、と想像が膨らんでしまう。

 そう言えば、NTTに入社したての時に、誤って研究室の花瓶を割ってしまい、上司に「申し訳ありません、花瓶が割れてしまいました」と誤り謝りに行ったところ、「花瓶は勝手には割れないだろう。そういうときは「花瓶を割ってしまいました』という表現が正しい」と叱られたのを思い出した。わざとじゃないんだから「花瓶が割れた」で良いと思うんだが、どうなんだろう。

【追記】この表現に関する、日本語の研究者による考察を発見した。

「イチゴが売っている」という表現 又平恵美子

日本語母語話者の会話で「イチゴが売っている」というような表現が使われることがある。商品が「ガ」で示されるのは、単なる言い誤りによる格の誤用として処理してしまうには出現の頻度が高く、一つの定型構文として成立してしまっているものであると考えられる。  動作主ではなく対象が「ガ」によって表示されていること、必ず「売っている」などテイル形で現れるということ、商品の所有権が移動しないという状況に限定されているということがその構文が成立可能となる特徴としてあげられる。このような表現が存在し得る理由は、「商品として物が存在している」ということだけを表現するためには、冗長的でない規範的な言い方では言い表しにくいということが考えられる。

『筑波日本語研究』第六号 要旨より引用】

 この表現の面白さに気がついたのは私が初めてではないようだ。