松下電器産業とスクエニの提携

Espn  まずは、このプレスリリースから読んでいただきたい。

Uniphier上にシームレス・コンテンツの開発および利用環境を共同構築

 スクエニが松下電器産業と協力し、スクウェア・エニックスが保有するソフトウェア技術を活用したミドルウェア「SEAD Engine」を、松下電器のデジタル家電統合プラットフォーム「UniPhier」に共同で組み込み、デジタル家電上でのシームレス・コンテンツ利用の技術・ノウハウを構築して行く。

 というアナウンスメントである。私の大好きな分野の話なので、本来ならば「シームレス・コンテンツってパーベイシブ・アプリケーションのことじゃん」とか「これって、両社にとってこんな戦略的な意味を持つに違いない」とかツッコミを入れるのに最適なテーマである。

 しかし残念なことに、スクエニがUIEの親会社であること、私自身がスクエニのチーフ・ソフトウェア・アーキテクトとしてこのプロジェクトに関わっていること、および、この「SEAD Engine」なるものがこの資料の末尾にも書かれている通りUIEngineの上に構築されていること、を考慮すると下手なことは言えない。私が「これはこんな時期にこんな商品として実を結ぶに違いない!」などと言ってしまうと、それが「インサイダーの発言」として引用されて一人歩きしてしまい、後から「あくまで私見で公式な意見ではありません」と言っても取り返しがつかないことになってしまうから気をつけなければならない。

 酒の席で話題が下ネタになった時は、あくまで一般論にとどめておき決して自分自身のことなどは話さない方が良いと思っている私だが、これにも同じポリシーを適用した方が良さそうだ。

 ということで、今日はこのくらいにしておくが、あくまで一般論として「シームレスコンテンツとは何か」を理解したければ、このブログの「パーベイシブ・アプリケーションという世界観」、もしくはCNetの「ネット時代のデジタルライフスタイル」を読んでいただければ良いと思う。

 また、Uniphierに組み込まれるSEAD Engine上へのコンテンツの開発に興味がある開発者の方々は、当面はUIEngine のSDKで遊んでいただければ良い(ダウンロードはこちら)。SEAD EngineはUIEngineを拡張したものなので、UIEngine上に作ったコンテンツは、キチンと移植性を考慮して開発したものであればSEAD Engineの上でもそのまま動く。UIEngine は既に携帯電話を含めた数多くのデバイスに移植済みなので、とりあえずは携帯電話用のコンテンツの作成に使っておいていただければ、Uniphier+SEAD を搭載した家電製品が世の中に出たときには、そのままコンテンツを持っていくことができるのである。

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ユビキタス羊[3] ソフトウェアはサービス

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これは、このブログを利用して執筆中の「ユビキタス・コンピューターは電気羊の夢を見るか」の第3章である。以前の章は、以下のリンクからアクセス可能である。
 1.まえがき
 2.「端末は窓」の意味

 私がまだマイクロソフトにいた98年ごろ、私も含めたインターネット最前線にいた人々の口癖は “Software is Service” (直訳は、「ソフトウェアはサービス」であるが、「ソフトウェア・ビジネスはサービス・ビジネス」と言った方がより明確であろう)であった。今までの、「Microsoft Office△△を○○円で買ってもらい、その2年後に新しいバージョンへのアップグレードを◇◇円でしてもらう」という「売り切り」型のソフトウェア・ビジネスから、「Microsoft Office サービス」に月々○○円で加入してもらう(そして新しい機能は逐一追加していく)、というサービス・ビジネスへの変換をすべき時が来ていた。

 その背景には、2つの重要な要素があった。マイクロソフト・オフィスそのものの問題と、インターネットという新しいプラットフォームの脅威である。

 マイクロソフト・オフィスは、98年当時ですでに大半のユーザにとって十分すぎる機能を持っており、新しいバージョンを出しても既存のユーザーがお金を出してまでアップグレードしてくれないという状態にあった。その状況は、2004年の現在でもいっさい解消しておらず、ユーザーの多くが、古いバージョンのオフィスをパソコンを交換するまで使い続けている。その売り方ゆえに、小まめなアップデートをユーザーに提供する道がなく、プロダクトの進化も2・3年に一度と非常に遅いものとなってしまっている。ビジネスモデルを月額課金のサービスモデルに変更することにより、ユーザーの意見をすばやく反映した改良を小まめに提供していくことが可能になり、それによりユーザーのより強い抱え込みがしたかったのである。

 インターネットというテクノロジーが、マイクロソフトのウィンドウズ・ビジネスを脅かすほどのプラットフォームになりうることを最初に言い出したのはネットスケープという会社である。95年に書かれた、”Netscape One” という文書には、全てのアプリケーションをサーバー側からブラウザーを通して提供するウェブ・アプリケーションという構想が明確に書かれてあった。それにより、ユーザーをアプリケーションのインストールやアップグレードの苦役や、特定のOSの乗ったマシンを選ばねばならないという呪縛(つまりマイクロソフトの呪縛)から開放することが出来る、というのである。技術的には、正しくかつ革新的なことを言っており、マイクロソフトにいた私ですら関心してしまったほどの文書であった。(この「宣戦布告」にマイクロソフトが黙っている訳がなく、有名な「ブラウザー戦争」が95年に始まったのだが、その話は別の機会に書こう)。

 このインターネットの脅威に対しては、マイクロソフトは、インターネットとマイクロソフトの基幹ソフト(OSやブラウザーなど)を組み合わせたものをインターネット時代のプラットフォームとして提案することにより対応してきた。その新しい時代のビジネス・モデルは、従来の「売り切り」型のビジネスではなく、eBay や Amazon が提供しているようなサービス型のビジネスにであるべきことは、すでに見えており、そこでの先駆者になりたいという思いがあったのである。

 ただし、この「ソフトウェア・ビジネスはサービス・ビジネス」という考え方を突き詰めていくと、マイクロソフト・オフィスもゼロから作り直さねばならないし、ウィンドウズというOSのビジネスそのものも否定しなければならない。それ故に、あれから6年も発つのに、マイクロソフト自身のサービス・ビジネスへの移行は進んでいない。それに対して、過去のしがらみのない、eBay、Amazon、Google、Salesforce.com などがサービス・ビジネスでの先駆者として先を走ることができるのである。

 ここまで読んでくれば明らかだとは思うが、ユビキタス時代のソフトウェア・ビジネスもまさにサービス・ビジネスであるべきだ、というのが私の見方である。アプリケーションやコンテンツが特定の端末向けに開発され、ユーザーがそれを手作業でインストールして初めて動かすことのできる時代から、サーバーから任意の端末にアプリケーションやコンテンツに提供されるようになる時代には、アプリケーションは端末ごとに「売り切り」の形で売られるのではなく、ユーザーごとにサービスとして売るべきである。つまり、ユーザーはあるアプリケーション・サービスへ加入しすることにより、どんな端末(例えその端末が人から借りたものであれ)からもアプリケーションを走らせることが出来るようになるのである。言い換えれば、アプリケーションが端末に帰属する時代から、ユーザーに帰属する時代に変わるのである。

(続く…)


ユビキタス羊[2] 「端末は窓」の意味

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これは、このブログを利用して執筆中の「ユビキタス・コンピューターは電気羊の夢を見るか」の第2章である。以前の章は、以下のリンクからアクセス可能である。
 1.まえがき

 従来型のアーキテクチャーがユビキタス時代に適さないのであれば、いったいどんなアーキテクチャーが適しているのであろう。その答えは、前の節で述べた、「端末はネットワーク側にあるアプリケーションやコンテンツにアクセス可能にするための『窓』である」、という発想を理解すればおのずと見えてくる。

 そうは言っても、従来の「アプリケーションとはパソコンにインストールして走らせるプログラムのこと」という既成観念にとらわれている人にはなかなか理解しにくいことかもしれない。そこで、パソコン以前からあるコンテンツの代表例である、「プロ野球の試合」を例として、「端末は窓」の意味を明確にして行こう。

 プロ野球の好きな人がプロ野球の試合を楽しむ方法は、幾つかある。

(1)野球場に行って観客席に座って観戦する。
(2)テレビで観戦する。
(3)ラジオで聞く。
(4)新聞で結果を読む。
(5)携帯電話で「野球中継アプリ」を走らせ、リアルタイムで試合の進捗状況を知る。

 このうち、実際に観客席に座って観戦する、という場合をのぞいては、ユーザーと実際の試合との間に、コンテンツをユーザーに届けるための何らかのネットワーク(VHS電波、新聞配達の少年、など)と、ユーザー側でコンテンツをユーザーにアクセス可能にするデバイス(ブラウン管、スピーカー、新聞紙など)が存在する。もちろん、ネットワークごとに伝送スピードに違いがあるし(新聞配達の少年は光のスピードでは走れない)、デバイスの機能もさまざまである(動画を新聞紙に印刷する技術はまだ開発されていない)ため、ユーザーに届けられる情報の量や質、即時性はそれぞれことなる。この場合、「プロ野球の試合」というコンテンツが、それぞれのメディアに適した形でユーザーに届けられるという意味では、まさにTV、ラジオ、新聞、携帯電話、というそれぞれの端末(新聞を端末と呼ぶのには抵抗があるかも知れないが、ユーザー側の「端」でユーザーにユーザーインターフェイスを提供しているという意味では、まさに端末である)が、コンテンツにアクセスする「窓」の役割を果たしている。

 これと全く同じことを、オンライン・ゲームからビジネス・アプリケーションまで全てひっくるめて、「コンテンツ・アプリケーションはネットワーク側にあるもの、端末はそれにアクセスするための窓」という考えを当てはめると、ユビキタス時代のアプリケーションのあり方が見えてくる。

 例えば、オンラインゲームの代表格であるFFXI (ファイナル・ファンタジーXI)を考えてみよう。現在、このゲームはパソコンとPS2のみからログインして遊ぶことができるのだが、携帯電話からログイン出来るようにしても当然のコンテンツである。このゲームの全ての「状態」は、各端末のメモリーカードではなく、サーバー側に保管させてあるため、全く別の種類の端末からログインしても、そのままゲームを続行することが可能なのである。もちろん、現時点の携帯電話の性能ではパソコンやPS2と同等の3次元世界を表現することも無理であるし、現行の従量課金式の通信料金ではお金がかかって仕方が無い。そこでコンテンツを提供する側は、その端末性能・ネットワーク性能の限界を理解した上で、それに適した見せ方でコンテンツを提供してあげれば良いわけである。ちょうど、ラジオ局のプロデューサーが、「音声だけしか送れない」という制限のなかで、いかに聴取者にプロ野球中継を楽しんでもらおうかと頭を絞るのと全く同じである。

 同じように、ワープロや表計算などのオフィス・アプリケーションも、オンライン・サービスとして生まれ変わるべき時代が来ていると思う。メールに添付されてきたプレゼンの資料が、マイクロソフトのPowerPointのインストールされていないパソコンでは開くことも出来ないというのは、全く馬鹿げている。つい数時間前に、パソコン上で私自身が書いたばかりの文書に、私の携帯から簡単にアクセスすることが出来ないのはどう考えてもおかしい。既存のユーザーに何とかバージョン・アップして欲しいという理由だけのために、年々肥大化しかえって使い難くなって行くマイクロソフトのオフィス・アプリケーションにうんざりしているのは私だけではないはずだ。どんな添付ファイルも、アプリケーションをインストールすることなく、かつ、ウィルスの心配も無く、どんな端末からも開くことが出来る時代、複雑なアプリケーションもユーザーにとって必要な機能だけ簡単に呼び出して使える時代、こそが、ユビキタスの時代である。

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ユビキタス羊[1] まえがき

UbiquitousSociety

 2000年に UIEvolution Inc. という会社を始めてから、色々な場面で「何でマイクロソフトをやめたのか」、「いったいどういう理由で UIEvolution という会社を始めたのか」、「UIEngine というテクノロジーの根底にある発想は何か」などの質問をされることがある。これまでは、その場その場で色々な答え方をしてきたが、そろそろ一度きちんとまとめて文章にしておくべきかもしれないと思い、少しづつ書きためて行くことにした。まずは、「まえがき」に相当する部分がこれである。ちなみに、この文章の仮題は、「ユビキタス・コンピューターは電気羊の夢を見るか?」という私の世代のSFファンにだけ分かる変な題名である。とりあえずは、「ユビキタス羊」シリーズとして、このブログで連載してみようと思う。

 ここ数年の、携帯電話、カーナビ、デジカメ、携帯型音楽プレーヤーなどに代表される組み込み機器の技術革新、および、第3世代携帯網、無線LAN、光ファイバーなどの通信技術・ビジネス革新により、「いつでも、どこでも、どんな端末からでも、どんなネットワークを介してでも、さまざまなコンテンツやアプリケーションにアクセスする」ことが可能になるユビキタス時代は目の前に来ている。

 唯一大きく遅れているのが、コンテンツやアプリケーションをさまざまな端末にシームレスにかつ安全に提供することを可能にするソフトウェア技術である。携帯電話向けのアプリケーションとデジタルテレビ向けのアプリケーションを別々に作らなければいけなかったり、パソコンのようにユーザーがウィルスの心配をしながらアプリケーションをダウンロードしなければいけないようでは、本当の意味でのユビキタス時代は実現できない。

 その実現のためには、「共通のOSやVMを全ての機器に乗せ、全てのアプリケーションを端末側で走るようにする」という従来型の発想を捨てる必要がある。パソコン向けのOSと、冷蔵庫の液晶画面をコントロールするOSはおのずと異なったものになるのは当然である。Java の VM にしても、パソコン向けの J2SE と、携帯電話向けの J2ME は大きく異なったものとなるのは、当然のことである。

 それに加え、「アプリケーションを端末側にインストールしたりダウンロードして走らせる」という発想も捨てる必要がある。「アプリケーションがインストールしてないために特定のコンテンツにアクセスできない」、「コンピューターのことが分からないユーザーがアプリケーションを手作業でインストールしなければいけない」、「あるアプリをインストールしたら他のアプリが動かなくなった」、「システムが時々フリーズしてしまう」、「アプリケーションをダウンロードするたびにウィルスのことを心配しなければならない」などの弊害は、全て従来型のパソコンのアーキテクチャーの根本的な欠陥がゆえの弊害であり、ユビキタスの時代にわざわざそんな「負の資産」を引き継ぐ必要は全くない。

 ユビキタス時代のソフトウェア技術を考えるときには、以下のような発想の転換をするべきである。

(1)ネットワーク時代のアプリケーションは端末側とサーバー側にまたがって走るものであり、「端末側にインストールして走るものがアプリケーション」という発想は捨てるべきである。

(2)アプリケーションやコンテンツは、端末に属するものではなく、ユーザーに属するものである。端末は、単にサーバー側にあるアプリケーションやコンテンツにアクセス可能にするための「窓」である。

(3)ユーザーは「アプリケーションのインストール」という作業から開放されるべきである。さまざまなアプリケーションを走らせる作業は、テレビのチャンネルを変更するのと同じぐらいに簡単でなければならない。

(4)アプリケーションやコンテンツが、どんな端末からでもどんなネットワークを介してもアクセスが可能なのが、「あたりまえ」の時代が来るべきである。もちろん、デバイスやネットワークの性能に応じて、ユーザーインターフェイスが「最適化」されるべきだが、「このアプリケーションはパソコンでしか走らない」、「あのゲームはPS2でしか遊べない」という時代は終わるべきである。

 つまり、これは「端末側にAPIを用意して、アプリケーションをインストールして走らせる」という従来型のアプリケーション・アーキテクチャーを否定する「脱OS宣言」である。マイクロソフトに長年勤め、Windows の開発の真っ只中にいた私が言うのも自己否定的な話だが、思い切って従来のアーキテクチャーを否定しない限り前には進めない時代が来ているのは明白である。じゃあ、「どんなアーキテクチャーが適しているのか」と言う疑問には、次の章から答えて行くつもりである。

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